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親鸞仏教センター通信
第56号 March 2016
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われに帰る

親鸞仏教センター研究員 中村 玲太
 ふと我に返る。日常に時おり訪れるありふれた瞬間である。まじめに仕事をしていたつもりが、いつの間にかネットのニュースめぐりに興じていた。そこでふと我に返って今費やしてきた時間は何だったのか……、と虚(むな)しくなる。こうした虚しさは誰しもが日常で経験するものであろう。」
 無意識裡(り)になすべきことから離れ、本来の自己を見失っている状態に気づかされて本道に返ってくる。これが「我に返る」ということであろうが、今まで何をしていたのか、という唐突に訪れる虚無感は決して欲のまにまに誘惑に負けていたときだけに現れるものではない。
 むしろ、誠実に責務を果たしているときに感じる虚しさは鮮烈である。すべきことをしているはずなのにこれが自己の本分だとは思えない。費やした時間に対する虚しさや不安だけが残りながら、返るべき我がない。これはまじめであればこそ浮かんでくる自己の根本を問う問題である。
 ところで、「まじめ」とは「真面目」と書くが、これは当て字である。江戸時代にはすでに「真面目」(=まじめ)という当て字は成立していたのであるが、「真地目」などの当て字も存在したようである。そうした数ある当て字は淘汰(とうた)され、ついに生き残ったのが「真面目」であった。漢字の音だけ見れば不自然な当て字であるが、本来の自己を意味する「真の面目」が「まじめ」として現在も通用しているのは、誠実さと自己との関係が課題として突きつけられているようにも思える。
  真面目に生きるとはどういうことであろうか。禅では「本来面目」ということが言われ、これが何かが問われてきた。『織田佛教大辞典』(織田得能編纂)の「本来面目」の項には、「然らば何者か本来の面目、請ふ参せよ」という辞書らしからぬ解説がなされているが、「本来面目」とは安易な答えが許されず常に問われるものだということだけはよくわかる。
 浄土の伝統においても自己とは常に問われるものにほかならない。忘れし存在の故郷に帰れと呼びかける弥陀の本願は、まさに本来の自己を問わずにおれない欲求を呼び起こすものであろう。
 帰るべき真に自己なるものを見失ってはいないだろうか。誤魔化さず自己を問い、自己の立脚地を希求していくことが自己に対しての誠実さであろう。これが真面目に――そして仏道に生きようとすることなのかもしれない。
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