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親鸞仏教センター通信
第58号 September 2016
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子どもを海に投げ入れる

親鸞仏教センター研究員 青柳 英司
 親になって初めて知ったのだが、生まれたばかりの赤ん坊は、笑うことすら知らないのだ。微(ほほ)笑んでいるように見えることがあっても、それは一種の生理反応であって、嬉(うれ)しさや楽しさの発露ではないらしい。

 けれど新生児も、泣くことは知っている。彼らは不快や不安を、泣くことで表現する。空腹だと泣き、眠くなると泣き、親が抱くのをやめると泣く。人の親になってみて、泣くべきことはこんなに多いのかと驚いた。

 確かにわれわれが生きる此土(しど)は、忉利天(とうりてん)のような場所ではない。穢土(えど)であり五濁悪世(ごじょくあくせ)のなかにあると、仏教は教えている。それなら赤ん坊が、笑うことも知らずに泣くばかりなのは、娑婆(しゃば)の苦海に生きるという事実を、純粋に表現しているからではないか。そう思うことがある。そして子どもを苦海のなかに放り込んだのは、他でもない。「親」という存在ではないかと。

 そもそも子どもたちは、自ら望んで生まれてくるわけではない。容姿も才能も境遇も、何一つ選ぶことはできない。しかも、常に有限な存在として、死という絶対否定にさらされている。これは、不条理だと言って良い。そうであるなら親になるということは、その不条理な生存を、子どもに強いるということだ。

  人間に、そんな権利があるのだろうか? 親になるということは独善であり、罪なのではないだろうか? そんなことすら、考えてしまう。

ただ、『無量寿経』のなかには、次のような言葉がある。

寿命は甚(はなは)だ得難し。仏世また値(もうあ)い難し。人、信慧(しんね)あること難し。もし聞かば精進して求めよ。法を聞きて能(よ)く忘れず、見て敬い得て大きに慶(よろこ)べば、すなわち我が善き親友(しんぬ)なり。 (『真宗聖典』50-51頁)
 仏法を聞き信心を獲た者を、釈尊は私の親友であると述べるのだが、そのためには「寿命(人身の命)」を得るという困難を、まず突破する必要性が暗示されている。ここから見れば親は、子どもが仏法を聞く前提を整えた、と言えるのかもしれない。しかし、換言するなら、それは子どもが法に出遇わないのであれば、親は子どもにとって、苦を与えた存在でしかないということだ。

 なぜ仏法に、そこまでの意味があるのだろうか。それは、仏法には人間が自我関心で築いたものを問い直す力があるからだろう。人間関係が希薄化する現代だからこそ、あらためて、仏法を聞いていきたいと思う。
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