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親鸞仏教センター通信
第70号 September 2019
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祖父が生きていた「足跡」

親鸞仏教センター研究員 藤村 潔
 センターに着任し、数ヶ月が経とうとしている。首都圏で仏教の研究ができるとは、しあわせなことである。と同時に、単身赴任であるため夜になると無性に妻子が恋しくなる。

 また、この年齢に至ると実家で過ごした家族団らんの日々を思い起こすことが、しばしばある。私は愛知県生まれで、3 人兄弟の末っ子、7 人家族。実家の寺院は曾祖父から今に至るまで説教師一家である。小学生の頃、夕方コタツで寝ながらテレビを観ていると、母親から「おじいちゃんが帰って来たから、ちゃんと起きて『お帰りなさい』を言いなさい」と、注意されたものである。私の祖父(伊奈教雄〔いな・きょうお〕:1917 - 2004)は寡黙な性格で、大変気難しい人だった。汗を流して畑仕事をするような「おじいちゃん」ではなく、どちらかと言えば、書斎に籠もって、好きな洋画を鑑賞し、読書にふける人であった。大正ロマンの気風なのか、質素な生活感がまったくなく、サイダー水が好物であったり、背広やコートにもこだわっていた。

  私が高校生のある時、祖父と私と2 人だけで夕食をとる機会があった。たまたま、戦時中の話になった。祖父は大学卒業後、すぐに開教使として従軍し、満州へ渡った。仕事は、現地に居住する日本人の為に葬儀や法事といった仏事全般を勤めるものであった。ある夜、日本人が亡くなり、枕経のために、軍人の護衛がつき現地まで馬車で送迎された。祖父は「緊張感が張り詰めていた車内の光景は、今でも忘れられない」と言っていた。原住民に夜襲される恐怖があったからである。

 当時、およそ30万人の日本人が新天地を求め、満州に渡った。祖父亡きあと、自分を生み出したルーツを知りたく、友人の協力を得て、当時の情報をいろいろと調べた。そこで判明したのが、祖父は「満州開拓勤労報国隊」の一員として、昭和13年(1938) 9 月10日から12月3 日までの3 ヶ月程度、「安東県布教所」(安東別院、現在の遼寧省丹東市)に勤務していたということであった(木場明志・程舒偉『日中両国の視点から語る植民地期満洲の宗教』柏書房、2007)。生前中、祖父が「満州(安東)は寒い所で、街全体が石炭の煙で覆われていた。それで、肺を患い早々に帰国した」と話していたが、その事実とぴったり一致した。

 その後、ソ連軍の侵攻や敗戦により満州国は崩壊した。戦争の惨劇は決して繰り返してはいけない。しかし、祖父は「日本は一生懸命戦った…そして負けた。…ただそれだけだ」と、もらしていた。その時代の地平に立って戦争を語る祖父は、当時の日本に対する不満を言わなかった。むしろ、多くを語らず心に秘めていたような後半生であったように思える。

 『歎異抄』には、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(『真宗聖典』640頁)と説かれる。我々が現代人の感覚で、当時起きた出来事を評価することは容易であるが、その時代に命を燃やした人々の肉声を決して忘れてはならないだろう。なぜなら、祖父から教わった記憶が、そのまま祖父の生きていた「足跡」として遺るからである。
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