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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第113回と114回がビジョンセンター東京(八重洲南口)で、115回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第111回から一部を紹介する。 (親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」46

一念の事実

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 徹底して真実信心に立つ
 『無量寿経』に「必ず超絶して去ること得て、安養国(あんにょうこく)に往生せよ。横(よこさま)に五悪趣を截(き)りて、悪趣自然(じねん)に閉じん」(『真宗聖典』57頁、東本願寺出版、以下『聖典』)とあります。親鸞はこれを正信偈で「獲信見敬大慶喜(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき) 即横超截五悪趣(そくおうちょうぜつごあくしゅ)」(『聖典』205頁)とおっしゃるのです。獲得(ぎゃくとく)信心が成り立つなら大慶喜が与えられる。大慶喜が与えられるということは、実は、横さまに五悪趣を截るのだと。
 「大慶喜」と親鸞聖人がおっしゃっていることは、死ななければ慶喜できないという話ではないはずです。「化身土巻」で、念仏しているのだけれど自力だという問題を親鸞聖人は第二十願で読み込まれるわけですが、その雑心なる自力の念仏には大慶喜がないと押さえるのです。本願を信じたと言うけれど、何かもやもやして一向にたすかっていない。死んでからたすかるという話をしているから、生きている間はもやもやしていてよいのだと逃げているわけです。それを親鸞聖人は徹底して真実信心に立つとおっしゃるわけです。安養国に往生して横さまに五悪趣を截ることが成り立つのは、信心という事実において成り立つのだと。真実信心に立つということは容易なことではない。しかし、親鸞聖人は真実信心に立って、そして本願念仏を仏教の極意だとおっしゃって生き抜かれたわけです。だから親鸞聖人の教えに触れようとするなら、やはりそういう親鸞聖人が為した大切な課題にどこかで我々自身も触れていきたいということがないといけないと思うのです。
■ 前念命終(みょうじゅう)後念即生(そくしょう)
 我々は相変わらずの凡夫です。にもかかわらず流転輪廻(りんね)の命を截るのだと。本願力が截るので自分で截るのではない。我々は、自分で超えたり、自分で截ったりしなければいけないと思っている。それを親鸞聖人は竪形(たてがた)の発想だと言うわけです。自力の発想だと。本願他力を信ずるということは、横(よこ)に截られることをいただくのだと。横に截られるということは、凡夫であることを止(や)める必要はない。凡夫の生活のままに大悲の本願の光の中にあることを信ずる。矛盾しないわけですよ、凡夫の命と。
 凡夫の命でありながら、五悪趣を截るとはどういうことだろうと考えたらさっぱりわからない。そういう構造をどういうふうに表現したらよいかというときに、大変難しい問題が絡(から)む。「前念命終 後念即生」という善導大師の言葉を、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(『聖典』430頁)と親鸞は言っているのです。それを曽我量深先生は、前念と後念というけれども、前念から後念へという念自身は一念なのだと。二念ではない、一念の前後だと。それは、凡夫であることと光に遇(あ)って五悪趣を横さまに截っていただくこととがどういう関係か言おうとすると、前念に死んで後念に生きる、妄念の自己に死んで本願の主体に生きるということは一念なのだと。前念命終後念即生が一念の事実の内容だと。「南無阿弥陀仏」の中に凡夫がそのまま往生するという事実を与えていただけるのだと。
■ 念々に妄念に死んで新しい命に甦る
 凡夫の自我を依り処とする発想から、本願力を依り処とする、転換する。転換したら終わりでなくて、転換するという一念は常に一念なのですよ。往生という事実は、本願力によって成り立つ生の転換を、新しい生に生まれると表現したわけです。だから、それは念々に生まれているわけです。念々に生命が生きているが如くに、念々に妄念に死んで新しい命に甦(よみがえ)るという事実がずっと続くわけです。そういうことが、親鸞聖人がいただいた、信の一念の内容としての「願生彼国、即得往生、住不退転」(『聖典』44頁)という本願成就文のいただき方ではないかと思うのです。
 そこには自分というものはないわけです。自分があってやっているわけではない。生命体の血液のはたらき一つをとっても自我がやっているわけではない。生命が生きているということは、もうどんどんとにかく栄養を取り込みながら新しい自己になりつつ生きているわけでしょう。一時として止まらない。生命というものは、変わりつつ変わらない。どうしてそうなっているかと言ってみても、そういうものなのですから。こんな不思議なことは生命でしか成り立たない。それを譬喩(ひゆ)に使えば、この自我の命に死んで本願力の命に甦ることが念々に起こることは何の矛盾もないわけです。新しい自己になりつつ生きていくわけです。なりつつと言うと、だんだんにというふうに、過程的プロセスではないかと考えてしまうけれど、そうではない。一念の事実の中に宗教的な事実をいただいて生きていくということなのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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