親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 公開講座 親鸞思想の解明
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、先にセンター通信でお伝えした第5回までに引き続き、第6回と第7回が東京国際フォーラム(有楽町)で有識者の方々を招いて行われた。第6回では大慈悲をめぐって、第7回では本願をめぐって、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者の方々と活発に意見交換がなされた。ここでは、先に行われた第5回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

闇を担って生きる

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■闇へ闇へ
 曽我量深先生は若い頃、清沢満之先生の願いを受けて東京の真宗大学の教員を務めていたのですが、真宗大学が教団の保守勢力によってつぶされてしまい、越後の養子先のお寺に帰って、短い期間だけれど住職をされたそうです。門徒の家にお経をあげにまわったりといった生活の中で、「田舎寺の住職」という文章を書いています。
 曽我先生はまだ若かったということもあるし、清沢先生の願いに触れたということもあり、それと何よりも、思想的能力の持ち主でありましたから思索が湧いてきてしまうのですね。とにかく湧いてくる想念を自分で表現せずにはおれない。ところが、ご承知の方も多いように、曽我先生の若い頃の思索を了解できたのは金子大栄先生だけだというほど、曽我先生の思索というのは、普通では何を言っているのか分からないのですね。そのくらい高度な思索をする素質を持っておられただけに、田舎に帰って、曽我先生と話し相手になるようなひとがいなかったのでしょう。それで非常につらい時をすごされた。孤独感と自分の考えが表現できないつらさとで悶々として……。そのことを曽我先生は何回も何回も手紙で金子先生に書き送っている。
 「闇へ闇へ」と曽我先生はおっしゃっていますね。自分は寺に育ち、清沢先生の教えを受け、浄土真宗の救いが自分の救いだと信じて生きてきた。ところが本堂で阿弥陀如来を拝んでいても、阿弥陀如来の光が来なくなった。自分の精神生活が闇だと。いくら念仏を称えても、称えている自分のこころが闇だというその事実をじっと見つめて、闇のようなつらさの中で救われなかった。
 そして苦しんでいる中で、闇の中で、もがきながら如来の救いということを考えている中に、法蔵菩薩を思い出したのです。一切衆生を救わずんば止(や)まずという、その願いが響いてきた。この闇こそ、法蔵菩薩がたすけようとする闇なのだと。阿弥陀如来の救いは自分に来なくなったけれども、法蔵菩薩がここにおられる。法蔵菩薩というのは因位(いんに)の菩薩です。「法蔵菩薩因位時」と『正信偈』にありますよね。つまり、これは因位の救いです。果の救いは光として来るけれど、因位の闇の中に、本当の闇の中にいっしょに歩もうと、苦悩を担(にな)って歩もうという大悲が来た。このことが実は光だったのだと。つまり外から来る光ではない。闇の中にこそ、本当に闇を生きようという光がある。法蔵願心は、明るみへではない。「闇へ闇へ」という、その闇へという願いにわれわれはたすかるのだ。闇を担って一切衆生をたすけようという願い。それを聞いたら、自分が闇に苦しむなどということはたいしたことではない。法蔵菩薩が立ち上がって来る。闇を担って生きるのだ。そういう直感を得られて立ち直られた。曽我先生の一生の仕事のうちで一番面白いのが、この法蔵菩薩ですね。
■因に立ち続けるということ
 親鸞聖人は、信心は浄土の正因だとおっしゃる。信心というのは因です。しかしどこかで人間は果が欲しい。つまり結果を持ちたい。仏教でいえば涅槃が欲しい、菩提が欲しい、自分はさとりを得たのだと言いたい。ところが親鸞聖人は、どこまでも自分を愚かな、苦悩する人間として、罪深い人間として生き切った。本当に愚かで罪深い身であるという自覚と一つに、自分の中に如来の大悲をいただいたという確信をもち、それを「信心」という名で押さえるわけです。こういう考え方、つまり因のままに立ち続けるという発想は、われわれの普通の考え方にはないのではないかと思います。だからわれわれには考え難い。因を得たら果を得たいというのが、日常経験の延長上にあるわれわれの要求ですから。種をまくのは何のためかといったら、芽が出て花が咲いて実がなって、それが取れるというのがわれわれの歓びですから。種だけでいいというのはありませんね。あなた方勉強しなさい、そうしたら立派な人間になれますよと。つまり果を約束して、果になると。結局、もっとましな人間、より人間らしい人間というような発想の超越の方向です。
 果の救いが欲しい、明るみが欲しい、光が欲しいと言う。けれども本当は、そういうものでは苦悩のいのちはたすからない。光でたすかるとか、そういうのはないわけではないけれど、それは醒(さ)めてしまう。酔いが醒めるように醒めてしまう。むしろ苦悩の実存、逃げることのできない罪悪のいのち、そこで、それをそのまま引き受けて歩むような大悲心というものに触れれば、それが救いなのだ。どうにも救い難い人間であってこそ、本当に救われる道がそこにあるのだということが証示できる。
 現代というこの時代は、本当にどのこと一つをとっても解決の道がない。とにかく何であれ手立てがなくなりつつあるわけでしょう。そういう時に、どうにかしたらどうにかなるというふうに考えるのが、近代理性だろうと思うのです。しかし、どうにかできるという発想で何とかしていくということは、もう行き詰まっているのではないかと思うのです。本当はどうにもならないのだと。どうにもならないということに立ってどうするのだという発想ができるとすれば、親鸞しかないのではないか。これは私の思いなのですが、あきらめるわけではなく、あきらめるというよりも、どうにもならないというところまで見抜いた上で、発想を転換して立ち上がらなければいけないのではないかということを、いろいろな問題について思うわけなのです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第3号に掲載しています。
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会 「『教行信証』と善導」研究会
『西方指南抄』研究会親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス