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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、先にセンター通信でお伝えした第5回までに引き続き、第6回と第7回が東京国際フォーラム(有楽町)で有識者の方々を招いて行われた。第6回では大慈悲をめぐって、第7回では本願をめぐって、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者の方々と活発に意見交換がなされた。ここでは、先に行われた第5回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

人間を破る言葉

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■人間を破る言葉
 仏教が教えようとする真理性、存在の本来性というものは、我々の妄念からは見えない。妄念からは見えないが、教えをとおして何かそこに「ある」ということが感じられる。その「ある」と感じられる世界から呼びかけてくるはたらき、そういう形で「本願」というものが教えられている。「願」が呼びかける。「願」が人間にはたらくと。
 人間は、相対的な存在のありように悪戦苦闘し、それ故に苦悩を生み、上を見たり下を見たり比較の煩悩に苦しめられ、それぞれの存在がそれぞれに与えられている本当の尊さに気づけない。まさに欲求不満と言いますか、何か満ち足りないままに、「やむを得ないが、こんなところか」という形でしか満足が見出せない人生になっている。そういう人間のあり方に対して、根源から「本来に目覚(めざ)めよ」という呼びかけとして「願」が教えられている。本来、我々にあるのかも知れないが、我々からは絶対に見えない、絶対に体験できないものから呼びかけられる。そうした仏の願いというものは、本来、形にならない。「願」というものには、形はない。
 我々の願いは、成就したら消える。けれども成就した「願」が本当に力を持つ、これが「如来の願」だと。だから、いわゆる人間の言う願いではない。人間の言葉になっている願は、人間の欲望をあらわすかも知れないが、「如来の願」は欲望ではない。人間は外へ外へと自分の欲望を満たそうとするけれども、人間自身が開かれるということはない。人間の願という言葉、人間の願いの方向というものと、仏教が「願」の言葉で教えようとする人間への呼びかけとは、方向が違うわけです。
 人間が人間から発想して対象を見、対象に呼びかけていく表現、そうした表現とは逆に、仏教の言葉は、いつもどこかで人間を目覚めさせようと呼びかけてくる。本来、形がない、本来、言葉ではないものをもって、人間に呼びかける。言葉を使わざるを得ないのだけれど、人間の状況を言いあてる言葉ではなくて、人間を破る言葉。一切の言葉は、人間の対象としてあるわけですが、仏教の言葉は、対象の実体化を破るというはたらきを言葉に与えようとするのです。
 だから、浄土というものが実体的にあって、そこに行ったらたすかるという話ではなくて、浄土として呼びかける「願」のはたらきがあって、そうした「願」のはたらきに触れれば、言うなれば、それがもう浄土だと言ってもよいわけです。しかし、浄土と言ってしまうと、浄土がどこかにある特定空間という意味を持ってしまうから、そうは言わない。そのような浄土という場所があるわけではないのだから。言わないけれど、浄土という場所を教えて呼びかけるわけだから、呼びかけてくるものに触れれば、そこは浄土だと言ってもいいのです。そこが言葉というものの難しさですね。
■大慈大悲と人間の分限
 浄土の本質、浄土を生み出す本性というものは大慈悲です。何のために浄土が教えられるのかというと、大慈悲のためだと。人間の慈悲というものは、時にもよおし、時にもよおさない。あるいは『歎異抄』に言うように、もよおしても、すえとおらない。けれども、それで要(い)らないというわけではない。人間は、それを大切にして生きていくしかないわけだけれども、悲しいかな、それだけでは人間は成就しない。そこに大慈悲があるからこそ、人間は人間の分限が見える。大慈悲が教えられなければ、人間は小慈小悲でもって自己を正当化する。小慈小悲というものは、すえとおらないし、むしろ罪を起こすこともある。自他ともにそれで迷惑していくということもある。たすけられることも勿論あるでしょう。だけど、人間の分限が大悲の前に照らされるということがあって、人間は本当に謙虚になれ、愚かさを知らされるのです。
 人間が、自らを正当化していく危険性を破って本来に帰っていくという方向性を、仏教はいつも呼びかける。自分ということになったら、和讃にあるように、「小慈(しようじ)小悲もなき身にて 有情利益(うじようりやく)はおもうまじ」(「正像末和讃」)と。  では、現実に親鸞が人をたすけたいと思わなかったのかというと、そういう意味ではないでしょう。そういう意味ではなく、慈悲心というもので本当に生きているかといえば、恥ずかしいけれども、そういうものではない。自我心の方が強いと。衆生をたすけるはたらきは、如来のはたらきだと。本願のはたらきだと。だから自分が救ってやるという話ではない。如来の大慈大悲のみが衆生を救う。如来の大慈悲が自分に響いて、如来を信ぜよということが自分の中に、「そのとおりだ」と頷ける。だから大慈悲心というのは、自分が大慈悲を生み出す心だという意味ではない。自分の心が能動的に大慈悲だというのではないのです。
 それは、ある意味の絶対受動です。能動というよりは受動である。それが他力という言葉の誤解される原因にもなるわけです。受動だからお与えだろうと。そうだとすると、何もしなくてよく、怠惰を正当化するというだけの話になる。しかしそういう意味ではない。いのちをどういうふうに尽くしていくかというのは、一人ひとりの宿業だろうと思います。縁が与えられる中で、動く心の中で、人は因縁の事実を精一杯生きていくわけですから。だから、何もしないでよいのが他力だとか、そういう誤解をはらわなければならないと思うのです。現在に安住するから、それで終わりなのではない。未来に向かって奮励努力できるのが精神主義だと清沢満之先生はおっしゃる。与えられた因縁のところに全力を尽くして生きていけるのだと。
 本当に、一つ間違えば死というものに踏み込んでしまうようないのちだけれども、与えられているいのちのあいだに、この苦悩のいのちを背負って歩めるということ、それが現代という時代の、この闇の時代に大事な一点になるのではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第3号に掲載しています。
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