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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第10回と第11回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、第10回では人間の本当の場所と柔軟さについて、第11回では「楽」の問題について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第9回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

非宗教化する現代と浄土の光

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■現代の非宗教化
 私の師匠であった安田理深先生の奥様は、百三歳でお亡くなりになるまで意識が透明で、非常に厳しい言葉で、「若い人は聞法しなさい。人生の目的は何ですか」ということを言い続けて亡くなって行かれた。
 その奥様がよく言われていたのは、老人ホームに週一回連れて行かれると、皆、寝ているか、車椅子かだと。人の世話にならずに生きるということは、もうほとんど九十歳を過ぎたら難しい。よほど達者な人は、たまにはいるけれども、ほとんどの方は自分で自分のことができなくなっている。だから、自分のことを自分でして、元気に歩いている奥様を見ると、皆、「どうしたら、そうやって長生きできるのですか?」と質問する。それで奥様は、「何のために長生きするのですか?」と切り返す。そうすると「何のためでもない。ただ生きたい。そういう人生しか、今はない」と言う。そのことの空虚感とか無意味感に悩む力すら失って、ただ、生きているというのが今の老人だ、という厳しい批判をしておられました。つまり精神生活がない。ただ豊かに、ただ経済生活とか、文明生活とかを楽しくおかしく生きられればいいという価値観のもとで生きて、長生きしてしまった。その結果、何もないと。ただ生きているということだけで精いっぱいで、そこに内容は何にもない。そういうことを見て奥様は嘆いておられました。これが日本の精神生活の現状だ、ということをぶつけていかれたわけですね。そういうことが、現代が非宗教化しているということを実感として感じる形なのだろうと思います。
■煩悩の垢
 「無垢光炎熾(むくこうえんし) 明浄曜世間(みようじようようせけん)」と浄土について天親菩薩は『浄土論』で語っています。「無垢」というのは、煩悩の垢(あか)がないという意味です。三垢(さんく)という言い方をして、貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)というのは三つの垢だという言い方をします。垢は人間の排泄物ですから、人間から出てくるものです。だから、ほこりが外からくっつくというのではなくて、生きているということが生み出してくる汚れです。つまり、煩悩と自分との関係は、自分の外側に煩悩がくっついてくるから取り除いたらきれいになる、そういうのではない。
 「煩悩具足」ということは、煩悩を手放すこともできるというのではない。だから、「罪悪深重」と言うのです。都合のいいことは欲しい、というのが欲です。怒り、瞋というのは、自分にとって都合の悪いことを避けたいという意思ですから、貪・瞋は裏・表です。都合のいいことは欲し、都合の悪いことはできるだけ避けようとする、そういう形でしか人間はものを発想しませんから、貪・瞋というのは外にくっついているのではなくて、人間自身の意思を動かしているひとつのエネルギーであると言ってもよい。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)で動いている。しかしそのことを自覚せず、無智である。そういう構造で、言うならば人間のいのちは垢を生み出す。垢は洗い落とせば一応きれいになるように見えるけれど、三日も経てば溜(た)まってくる。中から出てくる、汗みたいなものですから。垢が出なくなったということは、死んだということです。生きていれば垢が出るのと同じように、生きていれば煩悩と共に生きる。それに対して浄土は垢がない。垢がないという言い方で、人間の単なる世俗空間ではない空間のことを言っているわけです。そこから光が来ると。「無垢の光炎」と言われる。
■浄土の光炎
 炎は、煩悩の怒りの象徴にもなります。善導大師は「二河譬(にがひ)」で煩悩の欲と怒りとを、水の河、火の河に喩(たと)えています。その火、人間を焼き尽くすような炎というものが、実は、ある意味で菩提心の象徴にもなる。『十地経(じゆうじきよう)』(『華厳経』「十地品」)という経典では、菩薩の十地の歩みの一番初めの地は「歓喜地(かんぎじ)」と言い、その次は「離垢地(りくじ)」、垢を離れるというふうに言うのです。第三は「発光地(はつこうじ)」、第四は「慧地(えんねじ)」と言いまして、第四に来ると(ほのお)が出てくる。つまり、菩提心が磨かれてくると初めは歓び、その次には煩悩の垢を破ってくる。そこから智慧がわいてくる。智慧が磨かれてくるとになってくると。菩提心が輝いてくるといいますか、そういうことを象徴的に語っているわけです。だから、炎と言うと悪い喩えばかりではなく、非常に積極的な、大きな菩提心の動きをあらわす場合もある。
 『浄土論』の、ここでの場合は「浄土の光炎」です。燃えさかるような炎として、浄土がわれわれにはたらきかけていると。そして「明浄」、明らかに清くして世間を曜(かがや)かす。「曜」は強い輝きをもったはたらきのことで、「世間」とはわれわれの生きている場所です。浄土というのは光り輝いて何をするかと言えば、世間を明るくするのだと。世間を明るくし、清くするというはたらきが浄土の相であると。こういうふうに天親菩薩は語っている。こういう浄土の相に親鸞聖人は触れられて、精神生活を明るくするはたらきとして非常に歓ばれたのだろうと思うのです。歓ばれるということは、逆にそこから離れた時の自分というものは、煩悩の垢であり、精神の闇であり、憂鬱(ゆううつ)さであり、あるいは無意味さであり、寂しさであり、悲しさであると。
 孤独と無意味と空虚と、こういう感情、一個のいのちの感覚というものは、親鸞聖人の時代であろうと現代であろうと同じわけです。それが起こる場面や状況はそれぞれ違うかも知れませんけれども、そういう言葉で言い当てられる人間の感情は普遍性を持って響いてくる。人間として生きれば、必ずどこかに苦しみや悩みといわれるものを背負って生きている。そうした重層的な精神の闇を、ひとつ剥(は)がし、ふたつ剥がししながら浄土がはたらいてくる。そういうはたらきが浄土なのだと。時間、空間を越えて繰り返し光がはたらいて、われわれの精神を本当の意味で解放し、明るくする。逆に言えば、われわれの闇は、このはたらきから離れればどこまでも深い闇の中に沈んで、光が見えない。こういうことをつくづく感じるわけです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第4号(2003年12月1日刊行)に掲載予定です。
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