親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 公開講座 親鸞思想の解明
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第12回から第14回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、第12回では浄土の水について、第13回では浄土の大地について、第14回では浄土の音について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者・一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第10回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

本当の柔らかさを与えるもの

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■言葉の山
 人間は言葉の歴史をもち、貴重な言葉の蓄積があります。その言葉の山に、本当に生きた根源的な開(ひら)けが欲しいと思って飛び込んでいっても、下手をすると、迷路に入ってしまって戻る道がないというふうになりがちです。財宝の中に埋もれて、息がつけなくなる。
 特に、学問というのは「象牙の塔」という言葉もあるように、突っ込んでいけばいくほど出口がなくなる。「ミイラ取りがミイラになる」という譬えがありますが、本当は、一番最先端に行けばもとへ出ねばならないのです。曽我量深先生は、「深い山に入って、一番深いところに行ったと思ったら里に出るものだ」と言っておられました。山は、いずれまた里へ出ると。だから本当は、突っ込んで一番最先端のところに行った時には、現実の問題に一番近いところに行っているはずなのです。
 ところが、言葉の山というのはそうなるとは限らない。言葉の山に飛び込むということの根本には、何か求めているものがあり、本当は、その求める源泉に辿り着くか、もしくは戻って来なければいけないのですが、戻って来れなくなるということがあるのです。
 私が尋ね入った親鸞聖人の言葉の山も、場合によっては、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)して無味乾燥な言葉の山ともなりかねない。ですから、生きた現代の課題と触れながら言葉というものを洗わないと、言葉を洗うということは、古い言葉が新しい言葉と擦(す)れ合って、古い言葉が換骨奪胎すると言いますか、そういうことなしに、古い言葉が古い言葉として伝えているひとつの意味空間の中にただ埋没してしまうと、現実の問題と全く無関係な虚偽の空間になりかねないのです。そうなると、現実の人間、生きている苦悩の実存と触れることができなくなる。これは、私どもの大変陥りやすい病です。
 幸いにして私は、念々に、切れば血が出るような思索をしておられる先生に出遇(あ)うことができ、長い間、その先生から教えをいただいてまいりましたから、ミイラの山から出ることができたと言いますか、言葉の山に突っ込んでいくことはなかったわけですが、しかしまだ、何時(いつ)突っ込んでいくかもわかりません。
 そういう意味で、「そんなところで眠っている暇などないぞ」という課題が、生きているこの大地を揺るがしているような気がしています。ただ単に、現実の困難な課題に突っ込んでいくのではなく、古い言葉が語る、言葉の深い深い源泉というものを依(よ)り処(どころ)にしながら、古い言葉が語ろうとする根源的な開けの世界を、現代の困難な思想状況の中に開いていきたいと、私はそんなふうに自分の願いを位置づけています。
■柔らかな心
 『浄土論』の展開の中で、「触(そく)功徳」という言葉で教えられている問題があります。そこでは、浄土の「草」ということを、「宝性功徳(ほうしょうくどく)の草、柔軟(にゅうなん)にして左右に旋(めぐ)れり、触(ふ)るるもの勝楽(しょうらく)を生ずること、迦旃隣陀(かせんりんだ)に過ぎたり」と言っています。浄土の草は、とても柔らかくて、「迦旃隣陀」という、この世のきわめて柔らかい草よりも、もっと柔らかい。そういう語り方です。これもひとつのイメージ、象徴ですから、文字どおり、浄土に柔らかい草が生えている、そんなことを言っているわけではありません。本願の超越性に触れるということは、人間に本当の柔らかさを与えるのだという、そういうことの象徴でしょう。本当の柔らかさとは何かというと、「柔軟心(にゅうなんしん)」ということが言われています。柔軟心とは、不二(ふに)の心です。
 われわれは、常にふたつの心です。自分がいて他人がいる。自分がいて物がある。つまり、自他が割れ、自分というものが、常に他を外に見て一体感を失っている。男と女も違うし、動物と人間も違うと言う。では、みんな違うけれどもひとつだということを、一体、どこで感じることができるのかということです。
 ここでは、ただ生きている現象でみんな同じだと言うのではなく、浄土という大地においてひとつだと言うのです。つまり、みんな違うのだけれど、みんな違いながら違っていることの根源に平等性を感じると。人種が違おうと、生きている国が違おうと、あるいはイデオロギーや価値観が違おうと、根源的には平等だという眼(まなこ)をもつのが仏教徒の姿勢でしょう。
 人間は、しょせん頑固です。一人ひとり違う生命を自分で生きているのですから、どうしても相手(他の人)にはなれない。どんなに親しい友であっても、ひとつにはなれない。実は、「違いながらでいいのだ」という関係でなければ、本当は親しい友と一緒にはおれないはずです。同じになろうとしたら必ず喧嘩になる。「お前とは違う。違うけど仲がいい」。そういうことはあり得る。そういう意味で、柔軟心ということは、非常に大事ではないかと思うのです。
 仏陀は、教えるときに「相手と同じ心になれ」と教えられた。では、同じ心になれと教えられてなれるかというと、人間はなれません。けれども、なれないということにおいて自分を自覚する。そして、より大きな、もっと広大な大悲というものが仰がれてくることにおいて、違うままに許される。そこに、何か柔らかさというものが与えられる。そういう世界を開いてくる。こういう意味の象徴が、浄土なのです。
 今の人たちは、みんな自分の場所を作ろうと争っている。自分の場所、自分の場所と言ってぶつかり合っている。だから、孤独になるのです。近代文明の果ては、みんな孤独老人しかないわけでしょう。それを本当に破るものは何か。難しい問題ですけれど、浄土という問題が、こういう形で私たちに教えられているのです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第4号(2003年12月1日刊行)に掲載しています。
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「『教行信証』と善導」研究会会 「三宝としてのサンガ論」研究会」研究会
親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス