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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第15回から第17回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、第15回では浄土の雨について、第16回では浄土の光について、第17回では浄土の声について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者・一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第13回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

浄土こそ一人ひとりを目覚ます大地

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■浄土の大地
 親鸞聖人は、「大地」という言葉を、比喩的に本願のはたらきとして語られる。われわれは、自分で自分の地面に立ち上がろうとするけれど、清沢満之先生は、われわれが立っている地面は、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものの如しとおっしゃった。まあ孫悟空ならできますけれど、われわれは、浮き雲の上であればすとんと堕ちてしまう。これは不安定さを象徴しているのです。今の状況が落っこちていってしまうという不安感です。本当に立てる大地がわれわれにはない。自我を立場にして大丈夫だと思いたいけれども、この自我なるものは苦に責められるし、大体、自我自身が思うままにはならないのです。
 この世の中は、わが思いのままになるものは一つもないといってもよい。そういう苦悩の身は、実は大地を持っていないからだという。本来の大地があるのに、逆立ちしていて見えないわけです。そういうふうに教えて、私たちに目覚(めざ)めよと呼びかける。われわれは逆立ちした地面に生きている。それを翻(ひるがえ)せば、そこは浄土を感じる場所になる。浄土の大地とは、われわれの真の大地なのだということなのです。
■死んでからの救いへの疑念
 浄土をどういう形で人間が知ることができるかというときに、浄土が単に向こうにあって、ここと違うところなら、向こうに行かなければわからない。だから、浄土教の教え方を文字通りに理解しようとした伝統では、人間がここで生きている限り、己(おの)が罪を抱え、凡夫として逆立ちして生きていますから、どうしてもたすからない。たすからないから、死んで彼(か)の土(ど)へ往(い)けると理解しようとした。彼の土は、きれいな美しい世界、素晴らしい世界ですよと。そうすると、死んだら往けるのだという儚(はかな)い望みを未来に託して、今に賭(か)けていくしかない。だから、念仏したらたすかるよ、浄土へ往けるよ、でも本当かな、と思いながらも念仏を称え続ける。そういうのが浄土教の信仰の形であった。早く死んだら浄土へ往けるだろうというので、念仏しながら西へ西へと歩いて行って、海の中に入って浄土に往ったなどという伝説がたくさん生まれてくるわけです。
 そういう信仰のありかたに対して、親鸞という人は、深い疑念を持たれたのだろうと思うのです。つまり、人間が自分でたすかりたいと思ってたずねていくが、どれだけたずねても救いがない。だからといって、死んでたすかるという保証はどこにあるのか。そういう不安感ですね。死んだらたすかると素朴に信じられるのであれば、親鸞という人はあのような面倒なお仕事はされなかったでしょう。『教行信証』は、読んでも読んでもよくわからないような深い問題をはらんだ書物です。では、なぜこのようなお仕事をされたのか。そこには、現在の罪の身と未来の救いの身とが、どうして一つに成りうるのかという思想的な課題がある。そして、仏教の教えをとことん学んできた身として、仏陀の救いというものに出遇(あ)うならば、それは今ここにあるはずだと。死ななければ救いに触れられない、というようなことを仏陀が教えるはずがないと。そういうたずね方が根源にあったのでしょう。
■現生不退
 親鸞の思想の一番の核にあるのが、「現生不退(げんしょうふたい)」という言葉です。今、この人生を生きながら、もう退かない、もう転ばないという確信です。如来の回向、一如(いちにょ)からのはたらきというものをいただけば、現生に、ここに救いがくるのだと。しかし、煩悩を起こさないという身になって、そうなるのではない。毎日、腹を立てたり欲を出したり、失敗したり悩んだりしながら、その生活の全体を支えているはたらきを信ずるのです。人間は、ふつう苦悩が無くなったのが救いだと考えるけれども、そうであるなら死ぬしかない。苦悩があってよい。そのまま、まかせなさいという呼びかけです。そういう如来のはたらきを感じ取れば、苦悩があることが縁となって、この人生が歓びに転ずる。不退転をいただけば、それが人間として生きる起点となり、それがそのまま救いなのです。
 「南無阿弥陀仏」には自分の力はいらない。お前が自分で本来にもどれるはずはないのだと。お前はもう万歳すれば、そのまま本来に、もとにもどしてくれるのだと。比喩的に言えば、鉄棒につかまって、もがきながら逆さまになっているようなもので、力をぬけばひとりでに大地にもどるのです。われわれはどんなことをやっていても、この人生は自分で何とかするしかない。けれども、そういう生活の一点に、根源的にまかせるしかないのだという智慧を持つか持たないか。そういう根源的なものとして、おまかせするという智慧が開かれると、楽になるわけです。不退転がこの世で与えられる。それが、親鸞という人の教えの持っているありがたさだと思うのです。
 「絶対他力」と言うけれど、自分自身が完全にひっくりかえされるのが絶対他力です。自分が、もうどうにもならない愚かな身であるということが本当に見えた時、その見えるはたらきを教えてくれるのが他力なのです。だから、たすからない身だという懺悔(さんげ)と、たすけずんば止(や)まん、という本願の語りかけとはぶつかるわけです。それが南無阿弥陀仏という事実です。これは、一般論ではない。主体的事実です。一切衆生の大地となろうという本願を、私ひとりのためであったと引き受けたのが親鸞です。「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄』)と。
 現代の状況を見れば、もう絶望的なところがあるけれど、そういう状況だからといって、一人ひとりのいのちがどういふうに人生を感じて生きるのかという、その起点の問題は蔑(ないがし)ろにはできない。ひとりでは何もできないかもしれないけれど、やはり一人ひとりが一番大事なのです。一人ひとりが、一人ひとりの世界を大切にしながら目覚める方向に歩んでいきたいと、こう念ずるわけです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第5号(2004年6月1日刊行)に掲載しています。
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