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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、第18回と第19回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、第18回では仏教の言葉と浄土の声について、第19回では人間の分別(ふんべつ)と阿弥陀の正覚(しようがく)について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第14回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

妄念を破る浄土の鈴の響き

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■浄土の鈴の音
 『浄土論』の中に「虚空(こくう)功徳」と呼ばれる功徳があります。その中で「種種(しゅじゅ)の鈴(すず)、響(ひびき)を発して、妙法(みょうほう)の音を宣(の)べ吐(は)かん」とうたわれています。そこでは何を語っているのかというと、無数の鈴が響きを発して、そして妙法の音を宣べると言うのです。「妙法」というのは真実(まこと)の法です。すなわち、鈴の響きが、そのまま教えの意味を語りかけ、虚空、空間に満ちあふれるいろいろな音が、そのまま真理を語りかけるような意味をもつという、そういう荘厳です。
 この音というのも、やはり象徴ですね。人間の感覚の対象としてあるものではない。何かそういう見えざる世界が、実は鈴の音のように鳴っているのだ、とわれわれに呼びかけてくる。では、何が鳴っているのかと言えば、人間の妄念(もうねん)を破った無我(むが)の仏法を呼びかける音を出しているのだと。われわれは、この世を生きていながら、この生活空間の意味を見出せずに生きている。人間の意識や生活、そしていのちを支えている無数のはたらきを見失ったまま生きている。まさに空虚に生き、空しく過ごしているのだと。そうした人間存在に、「真実に目覚(めざ)めよ」と呼びかけ続けているのです。
■自分が聞くことのできなかった世界
 われわれの生活は、自分に都合のいいことだけが起こってほしい、都合の悪いことは起こってほしくないと思って生きています。しかし、仏法の真理性の音に触れると、人間にとって都合の悪いことや困ること、また、つらいことが必ずしも人間存在にとって忌避すべきものではなく、あらゆることが、仏法に目覚めよというはたらきを持ってくると言うのです。それは、人間関心において人間が善いと思う、いわゆるヒューマニズム的な正義感とか、進歩主義という発想ではない地平です。人間は、人間が考えたことは善いことだ、人間が考えたことは正しいことだと、その方向だけに進もうとします。だから、人間存在が本当に置かれているいのちそのものの響きというものが、ある意味で聞こえなくなる。実際、人間は他人のことにはよく気がつくが、自分のことには気がつかない。「あの人は視野が狭い」「あの人は心が狭い」と、人のことはよく見えるが、自分のことはわからない。
 ところが本当は、自分がそういう狭い空間を生きて、狭い発想でしか生きていないのだということを、仏法は一人ひとりに呼びかけるのです。だから、親鸞聖人が「弥陀(みだ)の五劫(ごこう)思惟(しゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞(しんらん)一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄』)と頷かれたということは、自分のために仏法のことばが呼びかけてくれていたのだと解(わか)ったということです。これに触れると、自分が聞くことのできなかった、自分の本当の歓びの世界が聞こえてくるのです。「一切衆生を救いたい」という願いが、われわれの妄念を破る響きとなって、われわれに呼びかけてくる。その響きのもとは、形なき形である如来の願いであったのだと。
 人間が人間をたすけたいという関心は、確かに、ある程度はうまくいくにしても、成就はしない。たすけるために、物を施しても、もらう方はさもしくなるし、あげる方は傲慢になる。人間関係というものは、どうしてもそういう我と我がぶつかった中でのやりとりになる。特に、経済観念で生きている現代生活は、そのやりとりで「得した、損した」ということになってしまう。情けないけれども、そうでないものが聞こえない。それほどまでに鈍感になっているわけです。現代人は敏感になっていると言うけれども、それは嘘でしょう。一部だけ敏感になっているに過ぎないのです。それも不健康な方向にね。だから人間というものは、お互いに哀れな存在であるなあと気づくということが、この鈴の響きなのです。
■南無阿弥陀仏の鈴の音
 この鈴は、いつでも自由に風が起こって、そしていろいろな音として鳴っている。その音は、南無阿弥陀仏なのです、本当は。南無阿弥陀仏の鈴なのです。南無阿弥陀仏ひとつということが私たちの生活の中に入ると、いろいろなこととの出会いに、いつでも南無阿弥陀仏が違った音をたてる。歓びがあり、悲しみがあり、あの事件が起こり、この事件が起こる。それといっしょになりながら、すべて仏法の音になって聞こえてくる。そういう生活が与えられてくることを、「浄土の生活」と言うのでしょう。
 そういう世界を知らないと、われわれは文字どおりの実体的な感覚で、ぶつかった事件をぶつかった事件としてだけしか、その意味を感得できない。ぶつかった事件の意味を転じて、自分を育てる意味として、自分の生きている空間を支える意味としていただき直すということは、自分が努力して考えてわかるというよりも、南無阿弥陀仏として、響いてくる音が聞こえてくることなのです。それが、ここで象徴されていることではないかと思うのです。
 浄土の鈴は、死んでから聞く音ではない。念仏のところに聞こえてくる声なのです。こうした超越性の声は、われわれがその声を聞ける耳の育つまで待っているわけです。では、そういう耳をどうしたら育てられるのかと言っても、その方法はないのですね。われわれに呼びかけてくる本願の呼びかけが、少しずつ少しずつ身に浸みていって、段々に聞こえてくる。南無阿弥陀仏ひとつに、浄土の鈴が聞こえてくるわけです。「ああ、また鳴っているな」と。鳴っているということは、こちらの愚かさが破られるわけです。「ああ、また腹を立てていたな、また欲を起こしていたな、また間違った考えでいたな」と、そういうことに気づかされる。くやしいけれど、残念ではあるけれど、自分の愚かさが見えてくる。自分の愚かさが知らされるということは、他人から言われると腹が立ちますが、浄土の鈴が聞こえたときはありがたいものです。他人から言われたら、「何だ」と思うでしょう。だけども、浄土の鈴が聞こえると、「ああ、そうだったなあ」と聞くことができる。それが、浄土の鈴の声というものなのです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第5号(2004年6月1日刊行)に掲載予定です。
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