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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第23回から第25回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第23回では天親菩薩の『浄土論』の眷属功徳と受用功徳について、第24回では無諸難功徳について、第25回では大義門功徳について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは先に行われた第22回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

凡夫に開く本願の花

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■蓮の花
 仏教は、悟りを蓮の花、蓮華に喩えます。蓮華というのは「淤泥華(おでいげ)」と呼ばれ、泥田(どろ)、曇鸞大師はそれを「卑湿(ひしつ)の淤泥」、湿って汚い泥と言って、凡夫の煩悩の喩えだと言うわけなのですが、そういう泥のなかに根をはって、茎を水面に出して、泥とはまったく想像もつかない色の花を咲かせる。泥田とはまるで異質の色、ピンク色あるいは真っ白や青い蓮華が開く。不思議なことですね。どうしてそんなことができるのかと思うのですが。
 われわれ人間存在というものは、本当に汚い心で生きている。お互いに利用しようとか、心の裏には自分が得をしてやろうというものが、必ずくっついている。そういうものを汚いと言われたら、われわれは立つ瀬がないのだけれども、仏教からすると、「そういう身であることを忘れるな」と教えるわけです。仏が悟りを開くということは、ある意味で、一切衆生を救いたいという願いそのものになることだと言われるわけですが、そういう清浄なる願いに立って救おうとする相手は、まったく救いようのない煩悩の衆生である。煩悩の衆生とかかわったら、生半可な心では、そちらへ引きずり込まれてしまう。
 ところが、蓮華というのは、まったくひどい状態から出て花を咲かせる。そういう仕事が、仏陀の仕事なのだと。きれいな場所を選んで咲く、これは当たり前な話だと。ところが、どうにも救いようのない地に根をはって、清浄な花を咲かせる。こうした仏陀のあり方を、蓮華のような清浄性で喩えるわけです。仏さまのお姿が、蓮台といって、蓮の華の上に立ち上がるというのは、そういう意味なのです。だから、「お前らは汚いから嫌だ」と言って、自分だけきれいなところへ行くというのは仏さまの心ではない。どれだけ煩悩の汚泥のなかにあっても、そこでこそ、本当の花を開かせようとする。そこには大きな矛盾がある。純粋清浄なるものと、濁って本当に汚いものとは絶対に矛盾する。その絶対矛盾を包んで、本当に成就しようという願いが、仏陀の願いなのです。
■歩まされてある自分
 『浄土論』に「如来浄華衆(にょらいじょうけしゅ) 正覚花化生(しょうがくけけしょう)」とあります。如来の浄土に生まれる衆生というものは、阿弥陀如来の正覚の花より化生すると。「化生」とは、卵生とか胎生などのいわゆる普通の生まれ方ではない。原因と結果が物質的に説明できない生まれ方を言う。浄土に生まれた衆生は、阿弥陀の正覚の花から生まれるのであって、人間の行為が報いて生まれるのではないのです。
 自業自得の道理と言われますように、われわれからすると、自分の行為、自分の生活経験の結果で、次の自分に成っていくと。自分が碌ろくでもないことをすれば、次に自分がそれで苦しむ。周りに迷惑をかければ、周りの人間から逆にやり返されて、結局、自分が痛い目に遭う。だから昔から、仏教のものの見方として、業の報い、「業報」という言い方をする。自分の生活経験の報いで、次の自分に成ると言うのです。
 ところが、他力の救いは、この自業自得ではたすからないのだと言う。人間は、皆、地獄に堕ちるような行為を繰り返している。深い罪のいのちを生きている。自分は悪いことをしていないというのは、思い込みでしかない。このような人間を阿弥陀如来がたすけてくださるのだと。阿弥陀如来の本願が、「お前は、いらんことを考えないでよい。そのまま任かせなさい」と、こう呼びかけてくださる。論理として言えば矛盾である。自業自得の論理に矛盾している。けれども、自業自得で放っておいたら、人間は、誰もたすからない。
 安田理深先生はよく言っておられました。あんたたちは、自分の意志でここに聞法しに来たのだと思っているか知らんが、しかし、ここに来ることができた背景ということを、よくよく考えてみなさいと。家を出るときに、誰かが尋ねてきたら、もう来られないではないか。誰も尋ねてこなかった。緊急の用事もできなかった。そういうことも、縁なんだと。あなたを来させたものは何だ。好きで来たのか。必ずしも好きじゃなかろうと。もっと好きなことは他にあるかも知らん。何でここに来たのだ。歩ませるものがあるからだ。聞きに行きたいと思わせるものがあるからだ。そこから聞法は始まっているのだと。そこに、もう法蔵菩薩が歩んでいるのだ。ここに来ているときだけが、聞法ではないと。こういうふうにおっしゃっていました。
 これは、自分の思いよりも、もっと深いものが人間を生かし、人間を歩ませているのだという見方ですね。無数の条件が支えている。全部支えられてあったのだ。自分も歩まされてあったのだと。そのことをとおして、人間の妄念を翻(ひるがえ)せと。人間の妄念を破らせようという、そういう真理のはたらき、それを「本願」という言葉で教えるわけです。
■本願の花が開くということ
 曽我量深先生は、「浄土往生、往(い)って生まれると言うけれど、往って生きるというふうに言ってみたい」とおっしゃっておられた。浄土の生(しょう)は、そこで昼寝をするのではない。阿弥陀如来の願いは、如来の本願に感動して、その願いをもって菩薩道を行じてほしいということ、それが浄土の生である。だから、本願に感動して生きる苦悩の衆生が、阿弥陀如来の願いを証明するのです。証明すると言っても、自分が覚さとりを開いて何か教えるという、そういう意味ではない。愚かな凡夫として、阿弥陀如来の本願がかたじけないという心が開けるならば、阿弥陀如来の浄土の仕事を、本願を信じた凡夫が実証するということになる。
 親鸞聖人が、『教行信証』の「行巻(ぎょうのまき)」に引いておられる偈文(げもん)のなかに、「此の土で一人の衆生が念仏すると、彼(か)の土で一つの蓮華が生ず〈この界に一人(いちにん)、仏の名(みな)を念ずれば、西方(さいほう)にすなわち一つの蓮(れん)ありて生ず〉」(『真宗聖典』180頁)という偈(うた)があります。此の土で、われわれの生活のなかに南無阿弥陀仏という声が起こる。そうすると浄土で蓮華の花が開く。これは詩的な語り方ですね。本願を信ずる衆生がいることが、本願の花が開くということなのです。
(文責:親鸞仏教センター)

※詳細内容は、『現代と親鸞』第2号に掲載しています。
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