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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、第26回から第28回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、第26回は「大乗」という課題について、第27回は「一切所求満足功徳」について、第28回は「故我願生彼 阿弥陀仏国(かるがゆえに我、願わくは、かの阿弥陀仏国に生まれん)」という言葉について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、その第27回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

信ずるということは、眼(まなこ)の転換

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■信心という問題
 『浄土論』に、「衆生所願楽(しゅじょうじょがんぎょう) 一切能満足(いっさいのうまんぞく)(衆生の願楽するところ、一切よく満足す)」とあって、「一切所求(しょぐ)満足功徳」と呼ばれています。「願」も「楽」も願うことで、衆生が願う一切が満足する場所が浄土であると。実際には、われわれは、全然満足していないではないかと。絶対満足などあるはずがないと思っている、欲の骨頂であるような人間に、「一切所求満足」などと言っても、そんな話は虚偽だと。あるいは、理想の話などしたってしょうがない、もうちょっと身近な話を、というふうにしか見えないでしょう。
 曇鸞は、「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」(『浄土論註』)という問いを出しています。無碍光如来、阿弥陀仏の名(みな)を称えても、相変わらず自分自身は無明(むみょう)であり、願いが満たされていない。しかし、それは名号の責任、如来の責任ではない。衆生の側に責任がある、と曇鸞は言います。どういう責任かというときに、信心の問題だと言うのです。
 信心という問題はやっかいで、なかなかわからないのですけれども、悟りということが、仏教一般を成り立たせてきた一つの大きな言葉であるし、目標である。そういう、悟りというものが中心の宗教とは、現世に、自分の体験内に、無限と一つとなる体験をもつということです。ところが、悩み多き、欲多き、しがらみ多き生活をしながら、そういう体験をもつことは、ほとんど不可能である。
 それに対して、親鸞という人は、愚かであり、流転(るてん)の生活をしていくしかないような人間、その人間が、本願によって、そこに、その生活のままに、悟りと同じ利益(りやく)を得ると。だが、それは悟りではない。それを言い表す言葉は、言うならば、ないのだろうと思うのですが、それを、「聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜(しんじんかんぎ)」という『無量寿経』の言葉、つまり、「信心歓喜」という言葉のなかに見いだした。それは普通の、いわゆる信心ではない。普通言われるような信心というのは、自分に都合のよいことを宗教から取ってくるというかたちの、利用、依頼心があるのでしょう。それは生死(せいし)の問題といった自分の力を超えたもの、運命的なもの、それが自分に加勢するようにはたらいてほしいと頼む。自分を超えたような何かに頼む。言うならば、自分のエゴを消さずして、自分のなかに無限なるものを取り込もうという、そういう宗教との関わりです。
■臨終まつべからず
 ところが仏陀は、そういうものに依らない智慧というものを開くために苦労された。そういう智慧は、一切衆生がその法に依って、その道理、真理に依ってたすかるものだと宣言された。それを、親鸞は求め求めて、本願の仏教で本当に出遇(であ)った。たすからない人間であるということを、もう、骨身に浸みて知っていて、しかも、たすかるという道を親鸞という人は発見した。これは、すごいことだと思うのです。
 ではそれを、どういうふうに表現していくのかというときに、おそらく親鸞聖人も随分苦労されたと思うのです。言い過ぎれば、誤解される。言わなければ、せっかく本願に触れた歓びというものが伝わらない。せっかく歓んでいるのに、“やはり、救いは死んでから後か”というような話になったら、何のために、いま出遇っているのだと。いま念仏しておいて、貯めておいて、臨終に役立つぞというような、そんな根性で称えているのかと。そうではないのです。
 親鸞聖人が、一念一念信心歓喜しているということは、その信心歓喜に救いがあるのです。その救いの意味は、「回向(えこう)」でしょう。如来回向。如来が来てくださるのだと。無限は、有限の外にあるように見えるけれど、外ではない。有限を包んで、ここにはたらいているのだということが、回向ということです。
 その構造が難しいですね。真実信心と大涅槃のさとりとは、直に接している。接しているけれど、取り込んではいないという関係で、いまを歓んでいけるということをどういうふうに言えるのか。ここを、親鸞聖人は、分限を押さえながら、しかし、あまり遠慮せずに積極的に言おうと。浄土教と言えば、死んでから後だというふうに思われているけれど、救いは死んでから後ではない。救いは現在にあり、臨終まつべからず(「臨終の称念をまつべからず」『尊号真像銘文』)、臨終が勝負だという宗教ではないのだと。
■清沢満之の言葉
 では、いま、たすかったのならば、いま、お前は仏かと。そういう意味ではない。仏ではない。けれども、仏になる資格はあるのだと言うのです。資格があればそれでよい。仏になるとがんばらなくても、もうよいのだと。愚かで罪深い、哀しい身であるけれど、そのままに、無限なる慈悲が、ここにはたらいてきているという事実をいただいていけばよいと。
 これが、清沢満之先生の次の言葉(「臘扇記(ろうせんき))にもよく出ています。「請(こう)勿(なか)れ、求むる勿れ、汝(なんじ)何の不足かある。若(もし)不足ありと思わば是れ汝の不信にあらずや」と。こう言わざるを得ないのは、やはり、欲しい、求めるという心が湧いてくるからです。けれども、それを「不信」と言っているのです。如来に対する絶対の信頼がないと。それは、如来に対しての反逆ではないかと。けれども、如来は衆生のそういう反逆も罪も、全部許そうと。しかし、「汝の苦悩を如何(いかんせん)」。そうやって、一人でもがいているものを救うことはできないよと。勝手にもがいているのだよと。こういう表現です。
 信ずるということは、眼(まなこ)の転換を言っているのです。私どもの発想の転換です。だから、こちらから信ずるのではない。如来回向の信心だと。如来から信じられていると。如来から与えられているということに、頷(うなず)くしかない。どういう状況だからだめだとか、どういう状況なら良いという話ではなくて、どういう状況であろうとも、状況を否定媒介にしながら、絶対満足をそこにいただくという、そういう智慧が、本願の智慧として教えられているのではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)

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