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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、第29回から第31回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第29回は天親菩薩の『浄土論』を参照しつつ、われわれが感ずる意識のレベルを超えることと「座功徳」の問題について、第30回は「身業(しんごう)功徳」について、第31回は「口業(くごう)功徳」について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第28回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土−濁世を超えて、濁世に立つ−」

わが身を引き受ける本当の自信

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■「我」の意味―有限なる身の自覚
 この間、この集まり(連続講座「親鸞思想の解明」)にもよく来てくださった、東京大学で倫理学の教授をしておられる竹内整一先生とお会いして、お話しておりましたら、大変な疑問を出してくださったのです。それは、仏教は「無我(むが)」、「諸法(しょほう)無我」と言う。これは根本テーゼ(These)であるのに、清沢満之は「我」と言う、と。その我が残っているのはどうしてですか、とおっしゃられた。これは非常に大事な問題なのです。
 確かに清沢満之は、「我他力の救済を念するときは、我(ワレ)が処する所に光明照し、我他力の救済を忘るゝときは、我が処する所に黒闇覆ふ」(「他力の救済」自筆原稿)というように、「我」、「我」と繰り返すわけです。これは清沢満之だけの問題ではない。親鸞が、『歎異抄』で「親鸞一いち人にんがためなりけり」というように、親鸞、親鸞と名な告のっていますし、さらには、『浄土論』でも、偈文(げもん)で「我」が繰り返し出てきます。「世尊我一心(せそんがいっしん)」と、そこから始まって、「故我願生彼(こががんしょうひ) 阿弥陀仏国(あみだぶっこく)」、我が願生すると。曇鸞大師は、それは単なる文法上で「我」と言っているだけで、重い意味で自我を主張しているわけではないというように理解しています。けれども、それだけではない大事な問題ではないか、と私はかねてから思っていたので、竹内先生の疑問をいただいて、はっと思い当たるところがありました。それは、浄土の教えというものと、それに出で遇あう自分というもの、その教えの成り立ちです。
 「諸法無我」というのは、存在の真理であるし、お釈迦さまが教えられた自己認識でもあるのでしょう。真理として、我はない。われわれは執着してやまないけれども、実体は何も無いのだと。永遠にあるものなど何も無いというのが「無我」です。  しかし、教えられても教えられても、真理に立つことができないというのが、この愚かな人間である。だから、親鸞という人は、この浄土の教えは、言うならば、他の道から落ちこぼれた人間、あるいは、他の道では自分を成就できないという自覚ができた人間が出遇う教えだ、というふうに押さえたわけです。これが、「我」という立場をなくさない浄土の教えというものをいただく、大事な一点だろうと思うのです。
 その「我」の内容は、立派な我ではなくて、有限なる身をもった我です。善導大師が、「自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、曠劫(こうごう)より已(この)来(かた)、常に没(もつ)し常に流転(るてん)して、出離(しゅつり)の縁(えん)あることなし」(『真宗聖典』215頁 東本願寺出版部)という、そういう内容を孕んだ「我」なのです。
 仏教の意欲、菩提心の要求を、「出離生死(しゅつりしょうじ)」という言葉で言い当てるわけですが、それは、人間の生きてあること自身が迷いであり、その迷っているいのちから目覚(めざ)めたいという要求です。こういう要求を、自分自身の要求として生きようという関心をどこかで感じないと、仏教の教えは聞こえないのです。これを感じたうえでの話になるわけですが、善導大師が「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と言ったときには、出離の縁がない。出離の可能性を呼びかけている仏教一般の教えに出遇いながら、迷いのいのちを離れて無限なる世界へと超え出ることができない。そういう悲しみの身の自覚です。そのときに、この往生浄土の道を選び取れということが、一つの方法論になるわけです。
■本当の自信
 有限から無限にはとどかない。けれども、その有限と無限の関係をわたそうとして、われわれからはいけないけれども、向こうから来てくださっている。無限の側に包み込みたい、衆生をたすけたいという願いの側から、教えが出ている。その願いの前に立った我が、願いとぶつかる、そこに「我」という名告りがある。迷っているいのちのただ中に、如来からのはたらきを、いま感じ取ったら、いまここにたすかっていく。けれども、たすかり終わって、向こう側にいくのではない。そこに「我」という字が、必ず付くわけです。無我になってしまうというような、抽象的なことにならない。
 この「我」は、たすからない我、煩悩の我。けれども、そこにたすかっていると。「我他力の救済を念するとき」、もうすでに、ここに光が来ていると言い得る。言い得るけれども、忘れるとき、やっぱりたすからない黒闇の身だと。だからまた念ずる。念ずればまた光があると。それでは、ただウロウロしているだけではないかと言われるかもしれませんが、そうではない。事実、迷いを生きているのだけれども、如来の願いがいつもはたらきかけてきていることを感ずれば、ここにもう救いが来ている。
 曽我量深先生がよく言っておられました。「機(き)の深信(じんしん)」は絶望ではない。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と本当に頷(うなず)くということは、「ああ、もうだめだ」という、自暴自棄のようなものではないと。それは、絶望ではなくて、そういうたすからない身であるということを、本当にありがたい身として引き受けられるのだと。
 「機の深信」を、親鸞という人は「深信自身」(『愚禿鈔(ぐとくしよう)』『真宗聖典』440頁)、自らが自分自身を深く信ずるというふうにうなずかれた。自分を信ずるというと、普通は、「能力があると信ずる」とか、「少しは、ましだと信ずる」とか、そんなふうに信じようとする。けれども、それは所詮、有限です。人と比較して「ちょっとはましだ」と信ずるのは煩悩です。比較心がついているから、自分よりもっと大きいものに出合うと、がっくりして絶望する。揺れ動いているだけで、自信にはならない。
 本当の自信、本当に自分自身が、「これでよい」と言うのには、もっと深い自覚がなければならない。機の深信は、決して絶望ではなくて、本当の自信なのだと。いくら反省しても、反省の下から煩悩が出てくる、そういう愚かな身である。けれども、本願の呼びかけをここに感ずる。煩悩の身であるからこそ、ここに感ずると。そのように、無限なるはたらきが、自分の前に本当に与えられてあるということに立つとき、初めて愚かなこの身が引き受けられ、本当に自分が信じられるのです。
(文責:親鸞仏教センター)

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