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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第32回(第32回のシンポジウムは、本紙12頁を参照ください)から第34回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第33回と第34回は、「心業(しんごう)功徳」について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第31回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土―濁世(じょくせ)を超えて、濁世に立つ―」

南無阿弥陀仏―本願自身がはたらき出る行為―

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■念々にいま
 大変、難しい疑問をぶつけられたことがあります。それは、「大悲であり、無条件だと言うのなら、念仏も要いらないではないか」と。「何も要らないではないか」と。そのとおりです。だけど、「何も要らない」と言われて、頷うなずけるか。例えば、母子であれば、ニコッと笑っているだけでよいという、そういう関係があるかもしれない。でも、苦悩の衆生が大悲を感じ目め覚ざめるというときに、何も無くては、たとえ大悲に救われているのだと頭で思ってみても、身が頷かない。>
 人間は、無条件ということを自覚するためには、何か一つの条件を潜くぐることが必要なのです。これは、なかなか面倒なことです。何か外に立てられた無限という形がないと、われわれはぶつかりようがない。ただ、無限の荒野に向かって立ったときの不安のようなもので、「自分がそこにあることでよいのだ」とは、とても気づけない。ただ、さまよっていくだけになってしまう。>
 「名前なんて要らないではないか」、あるいは「名を一回称えたら、もうあとは何も要らない、もうたすかっているのだ」と、そういう誤解も生じ得る。けれども、それは人間の傲慢性である。例えば、「食事は一遍食べればいい、腹いっぱい食べればそれでよいのだ」と言って、それで済むのか。人間は、時間を生きる存在だから、たちまち腹がへってくる。あんなに腹いっぱい食べたのに、次の日までもたない。そういう人間が、一回称えて、そのあとずっとたすかるというようなことはできないのです。すぐにまた、愚かな考えが起こってくる。我執が復活してくるし、いっこうに治らない深い罪が、人間全体を包んでしまう。>
 だから、いつもいつも間違いが照らし出され、傲慢さが叩き伏せられて、本当に愚かな自分がいつも感じられるというはたらきをどこかにもたないと、存在自身の尊さを本当に感謝していただくという生活が、現実のなかに足を降ろすことはできないのです。言うならば、海岸の砂に字を書くように、何回書いても、海の水で消えてしまう。そこにまた字を書くように、「念仏生活」は、念々にいま、念々にいまとして、しかも一番やさしく、いつでも、どこでも、誰でもできる方法として与えられている最良の方法である。こういう生活が、本願をいただいてきた歴史の頷きであったのだろうと思うのです。
■主語なき行為
 念仏は「易行(いぎょう)」である、ということが繰り返し言われる。しかし自分がなす行為が、たとえ易やさしくとも、「すごい行為なのだ、お前らの行為より勝れているのだ、俺がその行為をするのだ」というふうに自己評価をすると、念仏で自分を誇りにするということですから、そういう念仏を、親鸞聖人は注意深く批判されるわけです。念仏を称えることにおいて、如来の願いを聞いていく。そのことを忘れると、行為を己が行為としてしまう。そうすると、何のことはない、他の行為をなすのと質は同じなのです。
 その行為が如来の願いである。つまり、「一如(いちにょ)」のはたらきである。人間の我の行為ではないのだと頷くための手がかり、「俺が、俺がという思いがまた立っているな、この俺が間違いなのだ」と、うながすための手がかりとして、「南無阿弥陀仏」という言葉があって、その言葉において我執が破られ、光の世界のはたらきを回復してくるのです。
 そのための行為ですから、行為にして行為ではない。人間の行為ではなくて、人間を超えた如来の行為である。私の口をとおして発音するから「私の行為だ」と思った途端に、それは如来の行為ではなくなる。面倒な話です。だから、主語なくして起こる行為、本願自身がそこにはたらき出る行為、そういうふうに親鸞は「南無阿弥陀仏」を押さえられた。人間の思いで「どうにかしよう、ああしよう」という発想で何かをするのではないのだと。
 だから、「難信(なんしん)」なのです。信じ難い。われわれからすると、立派なことや難しいことをすれば、それはすぐにわかるし、目に見える。だけど、念仏するということは何の意味だと。だから、教えを聞いても聞いても、そういう疑いがなかなか晴れない。一番やさしい方法を選んだけれども、人間にとっては一番聞きにくい。なぜなら人間は、傲慢で、賢いと思いたいものですから。そして、難しい行為をなしてこそ価値があると思うものですから。
■大勢の求道者の伝統
 理性からするとわからない。「なぜ名前を称えればよいのだ」と。いくら考えてみてもわからない。わからないのだけれども、大勢の求道者が頷き、自らもそのことを実践して、大悲本願をいただいて喜んで生き、喜んで死んでいった。そういう伝統のなかに、われわれは漸(ようや)くにして、「ああ、南無阿弥陀仏という御名(みな)が尊いのだな」ということを少しずつ頷かされる。  「南無阿弥陀仏」という名の発音を聞くのは、自分に先立って、それをいただいた方が称えていることをとおして聞くのです。具体的に本願を信じ、念仏して生きている、そういう方々の発音をとおして聞こえてくる。そのことで、本当にこころの暗い、濁世を生きる罪業深重の存在であるわれわれが、阿弥陀の御名が尊いものだということに頷けるようになる。  われわれ愚かな凡夫が、本願を信じて念仏する。ちょっと見たら、愚か者が何か発音しているというだけのことにも見えるような行為をとおして、実は、一切衆生を救いたいという願いを、如来はどこまでも響かせていこうとされる。聞く側からすると、自分に先立って本願に触れてくださった方の、名を発音する声を聞いて―十方衆生はその声を聞いて―、また、自分も本願をいただく存在に漸く成っていくことができる。人をとおして、人を信頼して、名号が、大悲が、人間のうえに頷かれていく。私のなかに、自分を破って、自分で作るわけではない「如」の声が響いてくる。言葉なき言葉が響いてくる。そして初めて、「ナンマンダブツがかたじけない」ということが起こってくる。そういうことだろうと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究聖典の試訳 「歎異抄」研究会
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