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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第35回と第36回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第35回は、『浄土論』の「大衆功徳」について、第36回は、「上首功徳」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第35回の問題提起からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土―濁世(じょくせ)を超えて、濁世に立つ―」

本願の信心―矛盾のままにたすかる

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■矛盾を生き、矛盾を破る論理
 今日、親鸞仏教センターで、清沢満之先生の書かれたものを学ぶ研究会をやっておりました。清沢先生は、「無限」と「有限」という概念を立て、無限と有限というものは矛盾すると。つまり、有限は無限ではない。無限は有限ではない。けれど、無限というからには、有限が外側にあるはずがない。全部の有限を包んでいなければ無限とは言えない。しかし、有限が無限のなかにあるのだったら、有限と言えるのか。そういう矛盾がある。
 有限と無限は矛盾なのだけれども、事実として一致するということがないならば、仏教は成り立たない。そういうことを語ろうとする。そうすると語れないのです。矛盾しているのだから、言おうとすれば比喩でしか語れない。けれど事実は、矛盾を超えて生きている生命がある。そういうことを何とか語り抜こうとしているのだけれど、読んでもさっぱりわからない。無限は無限、有限は有限、とわれわれは思っていますから。だけど、有限は本当は無限なのだ、無限は本当は有限なのだと。
 善導大師に、「弥陀の智願海」(「往生礼讃」『教行信証』「行巻」に引用。『真宗聖典』174頁)という言葉があって、その「願海」ということで言うなら、願海の外に衆生はいない。どんな衆生も願海のなかにある。願海が浄土である。願海が浄土であるなら、どんな衆生も浄土の外にはいない。ところが、われわれは、浄土というようなものでない穢土のなかで、比喩的に言うなら、傘もないのに土砂降りの生命を生きている。では、どこに浄土があるのか。でも、願海からすれば、どこであろうと浄土のなかである。これは矛盾するわけです。
 人間の考えからすると、いまの世界にないから、どこかにあると。無限を有限の外側に立てるしかない。外側に立てた無限には、無限の距離があり、無限の時間がかかり、有限からは絶対にいけない。有限の努力をいくら積み重ねても有限だから、無限にはならない。けれど、そこに無限が有限にはたらく。無限に背こうとも、無限に反逆しようとも、無限と別なる有限はないというのが大悲ですから。  そうすると、浄土の衆生と言うけれど、それは実はわれわれなのだと。この愚かで罪深い心の暗いわれわれが、一切の河を飲み込んで、海の水にするような願海の大きなはたらきを感ずるならば、本願のはたらきのなかに自分を見いだすならば、浄土の衆生のなかにいるのであると。
 ではもう、浄土に生まれたのかというと、そこが難しいところです。われわれは、凡夫の生命を生きている。そのことは止(や)められない。煩悩のいのちであることを忘れてはいけない。だから、もう浄土に入ったとは絶対に言わない。煩悩のいのちでありながら、浄土の功徳をいただく。矛盾しているわけです。矛盾しているけれど、そこに「南無阿弥陀仏」が願海のはたらきとして来るのだと。こう信じて、苦悩のいのちを転じて、海のはたらきを感ずる場としてくれる。そういう、転ずるはたらきを感じながら生きることが信心なのです。
 本願のはたらきを信ずれば、矛盾は矛盾のままに破られていく。だけど、矛盾がないとは言わない。やはり矛盾なのです。そういう矛盾を生きていく論理が、信心の仏法だろうと思うのです。まあ、大変難しいと言えば難しいのですが、本願を信ずるということは、そういう意味をもっているわけです。
 
■悲しい事実があって、しかし嬉しい
 親鸞聖人は、徹底的に言葉と論理を大事にされるのですが、単なる論理ではない。やはり論理を尽くしながら、論理でいくところまでいって、それを超えて、矛盾を超えるような体験を与えようというところがある。
 それに触れないで、矛盾のままに理解しようとすると、凡夫で穢土に生きているのだから、浄土に生まれないのだから、功徳がないのだから、死んでから後だ、と言わざるを得ないのです。愚かな凡夫であるから、浄土の功徳が来るはずがない、浄土の功徳は死んでからだと。そういうふうに言葉をいただいてしまう。それは、どこかで本願を自分の外に置いているからです。死後の浄土などと言っているのでは、親鸞聖人の思想の大事なところを消してしまっているのではないかと思います。
 一面、そういうふうに、死後というかたちで表現しなければならない課題は、生きている間は、いわば泥田に足があるからです。けれども、本質はどこにあるかと言えば、泥田のままにたすかる、ということを言いたいのでしょう。泥田にいるから、お前は穢土だ、死んでからたすけてあげようなどと、親鸞聖人がおっしゃるはずがない。それは本末転倒です。つまり、一番大事なところを読まないで、言葉の端だけを掴まえてきて、やはり、死後往生を言っていると。そんなことを鬼の首を取ったように言う人がいるのですけれど、親鸞聖人が、そのために、こんなに苦労してものを書くでしょうか。何のために書いているのかということです。
 それは、愚かな凡夫がたすかる道を与えたいと。苦悩のいのちがどれだけ汚(きたな)かろうと、どれだけつらかろうと、そこにすでにたすかる道が与えられているからでしょう。だから、鈴木大拙先生が、「行」を“Living”と訳すのは、よくわかるのです。本願に触れて生きているのだと。本当に念仏が生きていれば、そこに救いがあるのだと。そういうことを、親鸞聖人は言い続けておられます。
 ただ間違ってはいけないのは、だから俺が仏に成ったとか、何か、そういう偉い様になる論理ではないのです。泥田を生きていることは変わらない。凡夫であることは変わらない。「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)」(『教行信証』「信巻」『聖典』251頁)という、その事実は少しも変わらない。にもかかわらずというのが、大事なのです。だから、讃嘆(さんだん)と懺悔(さんげ)が一つになっていると言われるのです。悲しみがあって、悲しみが無くなるのではない。悲しいのだ。悲しい事実がある。しかし嬉しい。だから、矛盾のままにたすかるということを明らかにしようと、一生ご苦労された。これが、親鸞聖人の本願の信心のすごいところだと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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