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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
  連続講座「親鸞思想の解明」は、その第37回と第38回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第37回では『浄土論』の「主功徳(しゅくどく)」について、第38回では「不虚作住持功徳(ふくさじゅうじくどく)」について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、第37回からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土―濁世(じょくせ)を超えて、濁世に立つ―」

苦悩の衆生に名を讃ほめられよう―大乗の悲願―

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■衆生が讃ほめるところに阿弥陀はまします
 『浄土論』で「荘厳主功徳成就(しょうごんしゅくどくじょうじゅ)」という言葉は、二度出てきます。一つは、環境世界の如くに浄土を荘厳する「器世間清浄(きせけんしょうじょう)」のなかに出てまいりましたが、今度は、「衆生世間清浄(しゅじょうせけんしょうじょう)」、あたかも人間関係の如くに浄土を荘厳するその一つに、また主功徳ということが言われてくる。環境世界に立ち上がった主体、環境世界に立ち上がっている如来自身を主功徳として語るわけです。「天人丈夫衆(てんにんじょうぶしゅ)恭敬遶瞻仰(くぎょうにょうせんごう)」(『真宗聖典』137頁 東本願寺出版部)と。
 天、人という言葉で、浄土の衆生を表し、丈夫とは強い人という意味ですが、強いというのは、体力とか意志力とかではなく、菩提心を表すわけです。自らが覚(さと)りを開くと共に、一切衆生をたすけたいという、そういう願いを成就することは、いわゆる有限な力では不可能である。にもかかわらず、その志願に立ち上がって、それを成就しようとする。そういう菩提心(ぼだいしん)をもった丈夫衆が恭敬する。そして、まわりをへめぐりながら、瞻仰する。拝み崇(あが)める。阿弥陀如来がおられるそのまわりを、無数の衆生が尊敬して、拝みながらまわる、そういうイメージです。
 阿弥陀如来は何であるかというときに、阿弥陀如来自身はこういうものだと言わずに、浄土の衆生がそのまわりをまわって尊敬するのだと、こういうふうに荘厳する。
 これは何を象徴しているのか。本願で言いますと、私はこれは十七願(同18頁)だと思うのです。十七願は、「諸仏称揚(しょぶつしょうよう)の願」とか、「諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願」とかと名づけられておりますけれども、阿弥陀は、諸仏に自分の名を称えてほしい。つまり、名を与えたい。それに応えて、諸仏が阿弥陀の名を称えてくださると、その時に、自分は、阿弥陀仏になりましょうと。阿弥陀というものが、どこかにあってというのではなく、無数の諸仏がおられるところで、その無数の諸仏が讃めるところに、阿弥陀が阿弥陀仏として成就していく。
 阿弥陀ひとりがいて、そのまわりをたくさんの存在が、みな瞻仰して歩くというと、この世的にイメージすれば、あたかも一人の独裁者がいて、そのまわりをみんなが這(は)いつくばって付いていくという、そういうイメージになるわけですが、そうではない。この世的に表現すると、そういう表現しか取れないかもしれないけれども、そうではなくて、むしろ一切衆生の苦悩の根本に沈みたいわけです。一切苦悩の衆生をたすけるためには、一切苦悩の衆生に自分の名を称えてほしい。称えようと思いたつこころのところに、自分が立ち上がるのだと。そういう方法で、大乗の悲願を兆載永劫(ちょうさいようごう)の未来にわたって成就していきたい。こういう願いが、阿弥陀の本願だろうと思うのです。だから、独裁国家をつくって一切の衆生に自分の言うことを聞かせるというイメージになると、これは何の意味もない。そういうことが浄土なのではなくて、浄土は、よく見ると阿弥陀自身は、言わばいないわけです。阿弥陀自身を語ろうとすると、まわりをグルグルと衆生が尊敬してまわっている、その真ん中にいそうだけれども、真ん中のことは語っていないわけです。これは次の「不虚作住持功徳」でも、「仏の本願力を観ずるに」(同137頁)と言って、阿弥陀を観るとは言っていない。もちろん、阿弥陀は本願力なのですけれど、願がはたらいているということをもって、阿弥陀とするわけです。
 天人丈夫衆も自分を立てる必要はないわけです。阿弥陀を讃めていればよい。阿弥陀も自分で立つのではない。天人丈夫衆が讃めるところに、阿弥陀がましますわけです。何か、そういう不思議な信頼といいますか、自分が立たなければどうにもならないといった我執から起こる信頼ではなくて、存在の真理に触れて存在を信頼するということから出てくるような、無理のない呼びかけなのではないかと思うのです。
■浄土とわれわれの生活の響きあい
 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)と、この主功徳とは、別ではない。どうも親鸞聖人の言葉を読んでおりますと、彼(か)の土(ど)の衆生と、この穢土(えど)の衆生とは因果で関係している。ということは、別ではない。しかし位は違う。その違いにおいて、有限であるという自覚をもつ。罪が深い。「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)」(同251頁)と。でも、本願に触れた言葉としての「悲しきかな、愚禿鸞」は、明るいのです。一人でもがいているのではないのです。悲しいのは事実だけれど、そこに如来の本願に照らされている明るみがある。だから、悲しいままに歩んでいける。絶望して止まってしまうのではなくて、無限に大悲をいただいて、悲しい生命を歓んで生きていける。
 こういう道が、この天人丈夫衆と響きあっている。われわれが本願の大悲を讃仰(さんごう)する、讃めたたえていくという生活と、浄土の衆生が天人丈夫衆として阿弥陀を恭敬している姿とが、響きあっている。実体的に一つだとか、同じだとか、もうここが浄土だとか、そういうことを言う必要はない。限りなく遠く、終わりがない。まったく異質で遠いのだけれど、本願のはたらきをいただけば、響きあっている。そこに安心して、われらはわれらの分限を歩んでいける。遠い存在を、遠く離れていて手が届かないと歎(なげ)く必要がない。本願他力を念ずるときには別ではないという、不思議なはたらきがここに来る。
 
■隣に親鸞が居る
 親鸞の伝説で、一人居ると思うなら隣に親鸞が居る、二人居るなら三人居ると思えと、そういう言葉が伝えられています。自分はどこに居るかといったら、念仏する人の隣に居るよと親鸞が言ったと(「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」「御臨末の御書」)。そういうふうに信じられて伝えられてきている。本願を生きた親鸞は、親鸞という名が付けられた肉体はなくなったけれども、親鸞の願いとして立てられた親鸞の名は、それを信ずる人が陸続(りくぞく)と続いていく限り、生きているわけです。その願と共に生きてはたらくわけでしょう。そこに阿弥陀があるわけでしょう。だから、この主功徳の語り方というものは、私は面白いなと、また有り難いものだと思うわけなのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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