親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 公開講座 親鸞思想の解明
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、その第42回(第42回のシンポジウムは、本紙12頁を参照ください)から第44回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第43回と第44回は、「荘厳菩薩功徳成就」の第一首について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第41回の問題提起(「二種回向〈往相回向と還相回向〉」)からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土―濁世(じょくせ)を超えて、濁世に立つ―」

この身は本願のはたらく場所

親鸞仏教センター所長 本多弘之
■往還の対面
 往相(おうそう)の回向というのは、私どもの煩悩の生活を突破して、大涅槃の果を得しめる。還相(げんそう)の回向は、逆に真実証の側からはたらいて、普賢(ふげん)の徳を修すると、こういうふうに親鸞は顕(あき)らかにしてくる(『教行信証』「証巻」に曇鸞の『浄土論註』を引文。『真宗聖典』286頁、東本願寺出版部を参照)。大涅槃を得るということ自身が謎みたいなものでしょう。その上、大涅槃から還(かえ)ってくる。これは謎のまた謎のようなものです。これを、死んで浄土に往いって、還ってくるのだと解釈してしまうのは、一つの解釈であって、回向は如来の大悲のはたらきを語るわけだから、そうした考えを少し変えなければいけないのではないかと思うのです。
 曽我量深先生は、どういうふうにこれをいただかれたかというと、往相還相の回向は、往還の対面だというふうに言ったのです。この考え方のヒントは、もう60年も前ですか、進駐軍が入ってきたときに、それまで日本人は左側通行であったのですが、右側通行にしろと。それで、「人は右、車は左」というような標語を作った。人は車と対面して歩けば危なくないと。その標語を曽我先生は、ああ、これが往相の回向、還相の回向の考え方だと。つまり、往かしめるはたらき、往相と、還らしめるはたらき、還相とは、われわれの上で出遇(であ)うのだと。われわれに往相の回向がはたらくと、われわれに教えてくださる還相のはたらきが来て、ぶつかる。念々に往還がぶつかる場所に、われわれは生きる。往還の対面ということをおっしゃったのです。
 これは、一つの考え方です。単に往相の結果、還ってくるというように、自分が往ったり来たりするのではない。自分は往くのみである。親鸞聖人という方は、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」(『歎異抄』同628頁)という言葉もありますけれど、自分は師匠にはならずに、凡夫として求め続ける。如来の教えに遇っていくのみである。それでは、自分だけが求め、自分だけがたすかって、他の人を見捨てていったかというと、決してそうではない。向かい合って教えてくださる以上に、われわれに教えを与えてくださった。つまり、「後ろ姿が人を育てる」と、よく言いますよね。つい、われわれは、前向きになりたがる。「お前はだめだ」とやりたがる。だけど本当は、人はそれでは育たない。人をつぶしてしまう。自分は求める。求めると、人も「ああ、そうだな」と求めてくださる。その求めさせるはたらきは、本願力である。人が引っぱるのではない。人を生かしている真理が、他の人も生かしていく。
 曽我先生が言われるように、自分は往相の回向をいただけば、還相の回向に値遇(ちぐう)する。還相の回向に出遇っていくのだと。曽我先生は一貫して、真実証から教えが出てくるのだと。如来の教えは「証」から、「さとり」から出てくる言葉、大涅槃の果から出てくる言葉だから、われわれを育てることができるのだとおっしゃった。だから、本当にはたらくものは、還相の回向である。われわれは、それに出遇っていく力を与えられる。出遇っていく力が、往相の回向である。往還の回向は対面であると。これは曽我先生の代表的な考え方の一つです。
 金子大榮先生の考え方は、親鸞が往ったように、みんな往くのだと。往かしめるはたらきが往相の回向である。その後ろ姿が、還相の回向だと。こういう考え方です。後から往く人間は、往相の回向の、後ろ姿の還相の回向に出遇うと。これも、わかったような、わからないような話ですけれども、わかると言えばわかる。
 
■本願力のサンドイッチ
 人間は真理を聞いていけばいいというのが、親鸞の姿勢です。その道を徹底した点が、すごいと思うのです。自ら凡夫だと言いながら、すごい凡夫です。徹底して凡夫なわけです。われわれは、すぐに凡夫を忘れる。忘れる凡夫ほど始末に負えないものはない。凡夫であることを忘れないということは、念仏の智慧なのです。
 だから、本願力が往かしめるのであって、往くのも還るのも本願力なのです。凡夫は往きもせず、還りもせず、ここに居るだけです。ここに居る人間に永劫(ようごう)の信心が与えられる。そこに大涅槃が来ると。つまり、はたらいている場所は、私にはたらいている。往還二回向がはたらいている。だから、私はそれを信じていくことができる。「弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ」(「高僧和讃」同492頁)と。信心も念仏もともに、如来の往相還相の回向によって与えられるのだと。与えられる場所は、この凡夫である。だから、自分でする必要はなくて、本願力がはたらいている。こういう信心が、他力の信心だろうと思うのです。
 サンドイッチというものがありますけれど、あるいは、どら焼きね。中のあんこの美味しいどら焼き、上下で挟むでしょう。どら焼きのあんこを美味しく感じさせるのは、上下の皮である。皮のまずいどら焼きなど食べられたものではない。上下の皮があって、見たところもどら焼き、食べてみてもそう。まあ、比喩ですよ。上の皮と下の皮とに分かれて、中を挟んでいるように、本当は一つのはたらきが二つに分かれている。本願力のサンドイッチが二種の回向となっている。そういうイメージで考えると、少しは考えやすいかなと思うのです。
 われわれは自分で生きていると思っていますけれど、実は大地に支えられ、空気があって生きているわけです。下に大地があり、上に空気がある。だからサンドイッチでしょう。われわれは、俺が自分で生きているのだ、俺が教えてやっているのだと思いたいから、とにかく愚かな上に愚かなのですね。われわれは、そんなふうに我執で考えているけれども、本当は、大きなはたらきに包まれて生きているわけでしょう。私は、そのはたらく場所になる。誰でもみんな、その場所になる。それは誰のものにもならない、誰の持ち物にもならない。そういうものを開いて教えてくださったことが、親鸞という人の大きなお仕事ではなかったのかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
(文責:親鸞仏教センター)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会 「『教行信証』と善導」研究会
『西方指南抄』研究会親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス