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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、第47回から第49回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。3回にわたって、『浄土論』の「菩薩荘厳功徳成就」の第三句と第四句について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、第46回からその一部を紹介する。(越部良一)
「浄土―濁世(じょくせ)を超えて、濁世に立つ―」

本願のはたらき
―念々に変わりながら、いまを生きる―


親鸞仏教センター所長 本多弘之
■万劫の初事
 『浄土論』の菩薩荘厳功徳の第二は、「無垢(むく)荘厳(しょうごん)の光、一念および一時に、普(あまねく)諸仏の会(え)を照らし、もろもろの群生(ぐんじょう)を利益(りやく)す」(『真宗聖典』137頁、東本願寺出版部。以下、『聖典』と略称)と言います。「一念および一時」、一つの時。二つの時にまたがらない。いまこっちにいて、次の時にあっちに行くというのではなくて、一つの時に、あらゆる世界を照らす。そして「もろもろの群生を利益す」と。ここに曇鸞は丁寧な注釈をつけています。この前の句では、「不動にして至る」(『聖典』289頁)、動かずしてはたらくと、こう言った。けれども、時が違うかもしれない。動かなくても前後があるのだろうと。だから、今度は「一念および一時」、前もない後もないこの一瞬、こういうふうに押さえ直したのだと注釈しております。これは、仏教の時間の問題と絡んで、大変大事な問題だと思います。
 曽我量深先生が96歳で亡くなられて、もう35年にもなるのですが、90歳のころ、正月、お祝いに来た方に、「先生、おいくつになられましたか」と聞かれて、「ああ、今年で90だ」と。「それはおめでとうございます」と言ったら、「万劫(まんごう)の初事であります」とおっしゃったと。「劫(こう)」というのは、羽衣(はごろも)劫とか、恒沙(ごうじゃ)劫とかの劫です。羽衣劫というのは、一辺四十里の岩を三年に一度、天女が舞い降りて羽衣で撫(な)で、その岩がすり減って無くなるまでの時間をさします。何時になったらすり減るのやら。大体、岩など、いくらすっても、手ぐらいでは減りませんよ。だから、羽衣ですり減って無くなる時間というのですから、気の遠くなるような時間、それが「一劫」です。恒沙劫というのは、ガンジス河の砂の数、それを数えるなどという人はいないのでしょうけれど、その砂の数を数え終わるまでの時間。そういうのが一劫で、それの一万倍が「万劫」です。「万劫の初事です」と、こうおっしゃった。それは、90歳になったから珍しいというのではないのです。生きている一時ひとときが、本当は、万劫の初事なのです。
 初めてここに一瞬がある。念々に初めて一瞬がある。われわれはそう思わないのです。昨日があって明日もある、と思っているのです。いまの時が、もう二度とない、この一瞬が全世界と匹敵する重みだなどと思わないでしょう。明日になったらどうだとか、昨日どうしたとか、そんなことばかり考えていますから。けれども、仏法に出で遇あうということは万劫の初事と、いまの時を感ずるのだと。そう言うのです。そういう内容なのです。この「無垢荘厳の光、一念および一時に」というのは。
 
■信の一念
 親鸞聖人も「一念」ということを非常に大事にされます。「行の一念」と「信の一念」ということを言われて、行の一念は南無阿弥陀仏、その一念。南無阿弥陀仏というその行は、本願がわれにはたらく、その相(かたち)です。そこに、信の一念ということを加えた。南無阿弥陀仏が本願のはたらきであると信ずる。その信心自身も如来のはたらきである。それは一念だと。一念は一というけれど、二ある一ではない。だから、一念というのは、「信楽(しんぎょう)開発(かいほつ)の時剋(じこく)の極促(ごくそく)」(『聖典』239頁)だと。時を截(き)るような時だと。これも言ってみようがないのです、そういう時のことは。
 われわれが感じている時間は、チクタクチクタク、今日もあって明日もあってという時間です。ところが、そうではない。もう二度と繰り返すことができない、二度と返ることができない、そういう時を、一時、一時、無量なる内容を孕んだ一時を、いま生きる。こんなことは、われわれには、なかなか起こらないけれど、本願の、南無阿弥陀仏においていただく時というのは、そういう時なのだと。それが「信の一念」だと。こうおっしゃるのです。
 それは比喩的に言えば、念々に断崖絶壁の一点に立っているようなものです。われわれは、念々にその一点に立っているなどという危機感を抱かずに生きているのですけれど、でも、質的には、前の一念に死んで、次の一念に蘇よみがえる。 念々に変わりながら、いまを生きている。われわれは、何年生きてもそういう重い一念を感ずることがない、情けない凡夫ですけれど、でも、本願に出遇う一念は、そういう質のものなのだと。そういう一念に出遇うと、万劫の初事ですと。そういう時に出遇うということは、いつかどうなるという話ではないのです。いまが無上の時であると、本当に拝める。そういう時が、この「一念および一時」である。
 「いま」という言葉を言った途端に、過去になってしまうわけですから、いまというのは、つかまえようとしたらないわけです。つかまえることができないのです、一念は。だから、つかまえられるような時を、破ったような時と言ってもよい。そういう時に出遇わしめるはたらきが、本願のはたらきであり、そういう時に出遇うなら、そこに「普く諸仏の会を照らし」、あらゆる諸仏の会座(えざ)にいってはたらくことができる。普くいけると同時に、一念でいけると。われわれはどっちにもいけないで、動けないで、にっちもさっちもいかないで、ずるずると長い時間を生きながらどうにもならない。それをひっくり返すような語り方なのではないかと思います。
 われわれには、動かずしてはたらくとか、一念ではたらくとか、そういうことは何のことやらわからない。でも、本願のはたらきを受けるということは、そういうことなのだと。いわゆる世間の、われわれの世間生活で感じている時間空間、あっちもこっちもあると感ずるような空間、前もあり後もあるというような時間、そういう時間空間を破って、本願のいのちを感じた時の、新しい空間と新しい時間というものの意味を呼びかけてくる。そういうことが、教えの言葉の内容として暗示的に語られていることなのではないかと、私は、そのようにいただいております。
(文責:親鸞仏教センター)
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