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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第4回と第5回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第4回並びに第5回では、「普賢大士(ふげんだいじ)の徳」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第3回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

宗教的な真実に出で遇あう―かくの如くに自分は聞いた―

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■「仏説」―生きた宗教体験の伝承
 『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)という経典、経典には必ず「仏説」とつくといってもよいわけですが、仏陀の説法です。この『無量寿経』の教主世尊(きょうしゅせそん)は、釈迦牟尼(しゃかむに)世尊で、釈迦牟尼世尊の説法ということになるわけです。しかし経典というものは、語られた方が書いたものではない。釈尊が亡くなられたあと、語られた言葉を聞いた人、つまり、お弟子方が集まって編集した。お釈迦さまがこういう言葉で語ったということを誰が証明するかと言えば、聞いた方がお互いに、「あの会座(えざ)では、あの場所では、こういうことをおっしゃった」「ああ、そうだそうだ」ということで編集していった。そしてまた、お釈迦さまは衆生を救うために、「対機説法(たいきせっぽう)」と言われますけれど、相手を見ながら、その人その人に応じた言葉を探して、語りかけられた。ですから、人によって、場所によって、教えの言葉が違う。そういうことで、教えの内容は、さまざまな可能性、さまざまな方向性を最初から孕(はら)んでいたと思われます。
 聞いた人の耳に残った言葉があるわけです。聞いた人が、「私は、このように聞いた」と。聞いた人が理解した限りにおいて残る。ですから、もし“お釈迦さまという歴史上の人物が説いたことだけが仏説だ”という、そういう考え方であったら、仏説というのはどこにもないわけです。お釈迦さま自身が、「私が、そう言ったよ」ということがないのですから。タマネギではありませんけれど、後からついたものは全部不純だから外していって、一番最後に残ったものが純粋だという考え方で、もし仏説を、衣を脱ぐように脱がしていったなら、何も残らないはずです。聞いたもの以外にはないのですから。それが、「仏説」というものの宿命です。
 この『無量寿経』という経典は、原典研究とか文献学というような立場からすると、お釈迦さまが説いたはずがないと。大乗仏教が出てきた紀元前後ごろに、どこかで編集されたものであろうと。だけど、仏説は全部、聞いてきた伝承が伝えているのです。いわゆる文献学などからすると、古いものほど正しいという考え方ですが、そうではなくて、聞いた方が、仏陀が教えようとした方向性に向いてたすかったかどうか、それが、仏説が真実であることを証明する。そういうところに、仏説という言葉の不思議さがあるのです。
 「仏説である」と、どこで証明するのか。誰も証明できないのです。伝承以外には証明できない。伝承が証明するということは、宗教的真理が伝えられ、それでたすかった人が、新しく新しく生まれてきて、その人が、これが仏陀の説だと信ずるしかないのです。「ああ、これが本当だ」と頷(うなず)いてきた歴史が伝えるのです。つまり、宗教的真実というものは、言葉になって新しい体験を生み出してこそ意味があるのであって、言葉だけが遺のこって、新しい体験を生み出さないのであれば、それは死語です。教えにならない。いただいた方が、教えというものを証明していく。この『仏説無量寿経』も、「我聞如是(がもんにょぜ)」(『真宗聖典』1頁、東本願寺出版部)から始まります。生きた宗教体験の伝承、「かくの如くに自分は聞いた」という伝承が伝えてきているものが信頼されて、経典として伝えられてくる。そこに、大乗の経典ということがあるわけです。
 いわゆる科学的な文献学のような、対象的な言葉の歴史とか、時代の特定とか、そういう資料探求の眼では、宗教的真実というようなものは、まるで求めようともしていないのかもしれません。宗教的真実というものは、もともと言葉にならなかったわけで、言葉にならないものを言葉にしたのだから、仏説の根源は言葉ではないのです。言葉をとおして、その根源的なるものを「これだ」といただいてきた歴史が、「仏説」ということを仰ぐわけです。
 
■出世の大事
 親鸞は、『仏説無量寿経』を釈尊の「出世本懐(しゅっせほんがい)」であると信じられた。この世に生まれた大事件、一大事、「出世の大事」というものを、親鸞という人は『無量寿経』の釈尊に見いだされた。
 人間として生きて、何かいままでの人生と違う人生を感ずるということがある。自分の人生だと言えるようなものに出合う。自分の人生は無意味ではないか、むだではないかとまで思われていたのが、それに出合ったことによって本当に意味があると。そういう新しい人生を感ずるということは、いろいろな因縁にあるかとは思いますが、宗教的な真実に出遇うということは、苦悩の行きづまりのような闇の中で、そういう新しい考え方、新しい眼、新しい人生観、世界観と言いますか、まったくいままでは見えなかった新しい見方ができたという体験です。
 この世に生まれて、闇の中に生きてきたような感じであったものが、明るみに出たという歓び。そして、それを人に説こうとまで思い立った、そういう内容に出遇った。それを「出世本懐」とか「出世の大事」という言葉が言い当てているのだろうと思います。親鸞は、『無量寿経』のなかに、そういう釈尊を見たのです。これは後を読んでいきますと出てきますが、阿難(あなん)というお釈迦さまの弟子が、釈尊を光り輝くお姿として仰いだと。これが、釈尊がこの世に生まれた本当の意味なのだと。つまり、お釈迦さまは単に普通の言葉を吐はきたかったのではない。光のようなはたらきをしたかった。光のような言葉を投げかけたかった。そういうふうに親鸞という人は、「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」(同7頁)、釈尊のお顔が光り輝いているというこの経典の内容を、真実教の証明として『教行信証』「 教巻(きょうのまき)」(同152〜155頁)に取り上げておられます。親鸞聖人からすれば、いろいろな仏説があるというよりも、これが出世本懐の仏説である。本当に、このこと一つを説くために、自分は一生を生きてきた。このこと一つのために、この世に生まれてきた。そういう歓びに輝くお顔で釈尊は説法を始められた。『無量寿経』は、そういう意味をもっている仏説なのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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