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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」の第6回から第8回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第6回では、「諸仏の国」について、第7回では「諸仏護念」について、そして第8回では「魔、声聞・縁覚、滅度」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第4回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

大乗仏教の人間像―菩薩とは、目覚めようとして生きる存在―

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■普賢の徳を修する
 『無量寿経』(『大無量寿経』)の教えを説き始める一番最初に、この教えを誰が聞いたか、聞いた人の名前が並べられています。そこに、お釈迦さまの時代の上足(じょうそく)の仏弟子たちと並んで、大乗の菩薩方が出されてくる。その筆頭に「普賢(ふげん)菩薩」の名が出され、そして「みな普賢大士(だいじ)の徳に遵(したが)って、もろもろの菩薩の無量の行願(ぎょうがん)を具し一切功徳の法に安住せり」(『真宗聖典』2頁、東本願寺出版部。以下、『聖典』と略称)と。普賢というのは、大乗仏教の物語上の人物で、歴史的人物ではないのですが、この名前が『無量寿経』の教えを聞く菩薩たちの筆頭に出されているということが、この経典のひとつの性格を示しているのではないかと思います。
 親鸞聖人は『教行信証』のなかで、行を顕(あらわ)して、南無阿弥陀仏が人間の心を開くときには、「衆禍(しゅか)の波転ず」(『聖典』192頁)、諸々の禍(わざわい)の波を転じて、「光明の広海」(同)に浮ぶのだと。非常に比喩的な表現ですけれど、名のはたらきを信じて、名が身に響いてきたならば、いろいろな禍を転じ、苦悩を転ずる、その苦悩の闇が晴れて、光の海に浮かぶような存在になる。そのときには「普賢の徳に遵うなり」(同)と、この「普賢」という名前を出しているのです。親鸞は、この経典が語る普賢というあり方こそ、人間が本当に成るべきあり方であり、われわれのような愚かな罪悪の深い人間が実現することができるあり方として、この名前を出してくるわけです。
 普賢という名前については、本願の二十二番目の願、非常に大事な願なのですが、そこに「普賢の徳を修習(しゅじゅう)せん」(同19頁)ということが出てきます。それはどういうことかというと、浄土に生まれるということは、生まれて終わりなのではなくて、今度は、あらゆる世界に行ってはたらきたいと。われわれからすると、苦悩の場所が嫌だから、浄土というすばらしい場所があるならいこうかということでしょう。ぬくぬくとあたたかい状態にとどまれるのではないかというのは、苦悩の生命を生きている人間の逃避的感情ですね。そういう人間が要求した浄土のイメージは、そこへいったらいつまでも「ゆっくり休んでください」と弔辞でよく言うような、楽しく、また熟睡できるような場所です。そういうイメージで呼びかけられていってみたら、豈図(あにはか)らんや、「自分で、どうぞはたらきなさい」と、こう言われる場所になる。言われるというよりも、自分でそう欲(ほっ)する。その力は阿弥陀の力である。エビがころもを付けられた天ぷらになるように、浄土に触れたら、阿弥陀のころもで守られて、どこへでもいける。そこにいるよりも、むしろもっとはたらきたいというふうに、立ち上がっていく。そういう相すがたとして、普賢の徳を修するということが言われるのです。
 
■ 「無上尊となるべし」
 菩薩さまというと偉い人だということになってしまっているのですが、菩薩というのは、もともとの意味は、目め覚ざめようとして生きる存在を言うのです。菩薩は、特に大乗仏教の人間像だと言われますが、個人が個人的にたすかるというよりも、人類の苦悩を背負った個人が、人類的苦悩を克服する。そういう歩みが「菩薩」と名づけられる。
 「常行(じょうぎょう)大悲」、常に大悲を行ずるという言葉がありますが、普賢菩薩のひとつの行為に、「常行懺悔(さんげ)」ということがあるのだそうです。過去の罪だけではない、現在の罪、未来の罪、これを常に懺悔すると。こういうことをもって行とするような菩薩を、大乗の菩薩方の一番初めに出して、そして「一切功徳の法に安住せり。十方に遊歩(ゆうぶ)して権方便(ごんほうべん)を行じ、仏法の蔵(ぞう)に入りて彼岸を究竟(くきょう)し、無量の世界において現じて等覚(とうがく)を成じたまう」(同2頁)と、ずっとそうした菩薩の行として展開されてきます。
 そして、次に「兜率天(とそつてん)に処(しょ)して」(同)という言葉が出てきます。兜率天というのは、インドの天の一番高みにある天の名前だと聞いていますが、その兜率天で「正法(しょうぼう)を弘宣(ぐせん)」(同)していたのが、「かの天宮を捨てて」(同)、その兜率天を捨てて、「神(じん)を母胎(もたい)に降(くだ)す」(同)と。「神」は精神という意味で、母親のお腹のなかに降りてきたと。そして「右脇(うきょう)より生じて現じて七歩(しちぶ)を行ず」(同)と。これは仏伝にならっているわけですが、ここでは「みな普賢大士の徳に遵って」という文脈で出てきていて、大乗の菩薩方の姿を語っているので、直接、お釈迦さまのことを語っているわけではない。お釈迦さまが生まれてきたときには、生まれた途端に七歩歩んで、「天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」と言ったという伝説がありますけれども、ここでは、「声を挙げて自ら称(とな)う。『吾(われ)当(まさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし』と」(同)。
 これは文学的な表現ですから、どう感じ取るかというのは、人によって違うのかもしれませんが、兜率天、これは天のなかの天、一番楽しい天だと言われている。一番寿命が長いし、一番美しいし、一番透明である天。そういう天にいた存在が、この五濁悪世(ごじょくあくせ)に降りてきているのだという、そういう人間像です。そして、ここに生まれて生きているということは、無上尊と成る、仏に成るということだと。仏陀の覚(さと)りの世界、苦悩を超えたあり方にかえることだと。これは人間存在として生まれた、一人ひとりの生命に、仏陀が呼びかける課題が与えられているということだと思うのです。
 われわれは「俺の人生は、俺が苦しんでいればいいのだ」と思っていても、仏陀が呼びかける衆生、「苦悩の衆生よ」と呼びかけている相手は、皆、実は一番楽しい世界、一番美しい世界のいのちをあえて捨てて、この苦悩の生命に来たのだと。この苦悩の生命をいただいて、そこで何より尊いものとなるのだと。われわれはこれを読んで自分のこととは思わないし、自覚できない。「ああ、そういう偉い人もいるのかな」というくらいにしか思わないけれど、実は、普賢大士という名前は、われわれと無関係ではない。こういう菩薩になるべく、われわれは教えを聞き、教えに出遇(であ)い、そうすれば必ず、普賢大士の徳に遵うことができるのだという呼びかけです。こういう課題が与えられてあるということを、まず、この普賢大士の功徳のところで、われわれに暗示しているのではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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