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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」の第13回と第14回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第13回では、「如来の十号(じゅうごう)」について、第14回では、「歎仏偈(たんぶつげ)」について、センター所長・本多弘之が問題提起を行い、参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第11回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

人生最高の生き方―愚(ぐ)に帰る―

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 愚に帰る
 この間、ある出版社から私に「文章を書いてほしい」という依頼が来まして、私は「そういう文章は苦手だから」と、さんざん断ったのですけれど、どうしても書けと。では「何という題で書くのですか」と聞きましたら、「人生最高の生き方」という、何かすごい題なのです。そういう題で書いてほしいと言うのです。
 「人生最高の生き方」とは何だろうと。それは確かに、私も若いころは、人に勝っていこうなどという野心をもったこともありますし、何とか少しでもましになろうなどという、ばかげた心を起こしたこともありましたけれど、長い間、親鸞聖人のお言葉を教えとして生きてきますと、一番難しいのは、法然上人が言われた「愚ぐに帰る」ということだと思うのです。
 つまり、もともと愚おろかなのだけれど、それを自覚することが難しい。丸裸の愚かさになるということが、一番難しい。愚かさを隠して、できるだけそのうえに何かを乗せて、愚かではなくなろうとする。愚かのうえに愚かを重ねる、そういう愚かの2乗みたいな愚かさを、われわれは一生懸命に生きている。その愚かであるということに帰れるということが、本当は一番楽だし、一番存在が輝いて自由であると。「ああ、そうだな」と。最高の生き方とは、「愚に帰る」ということだと。そういうふうに考えて、この題(「人生最高の生き方」)はありがたいと思って、短い文章を書かせてもらったのです。
 この『無量寿経』に、「今日、世英(せよう)、最勝の道に住したまえり」(『真宗聖典』7頁、東本願寺出版部)とありますが、「最勝の道」というのを見ると、どうしても私どもは、何かみんなやっつけて、俺一人が勝ち残る、そういうふうになるのだろうと、こう見るわけです。でも、そうではないのです。「世英」、つまりお釈迦さまが勝ったのは、自分に勝ったのです。自分に勝ったということは、自分の妄念に負けない方向性を見いだしたということだと思うのです。自分に勝ったというのは、自分の無知、自分の無明(むみょう)、自分の本当の愚かさを自覚して、真理に帰った。真理と言っても、自分に執着すべきものはなかったという、無我(むが)と言われるようなものです。因縁の賜物で、ここにたまたまある。たまたまあることの尊さと、それを偉いのだと思い込むこととは違うわけです。
 どうしてもわれわれは、教えの言葉を求めたり、本を読んだりするときに、もとの愚かさの自覚ではなくて、それに何か智慧を乗せていこうという発想で行うわけです。そういう発想で、聞いたり考えたりしようとするから、やればやるほどわからない。結局、わからない方向で尋ねているから、わからないのです。ところが、わかるわからないを超えて、愚に帰るというような大切な方向があるのだということに気づいてくると、仏教の歩みが始まる。では、その歩みの極限はあるのか。極限はあるのかもしれないけれど、そこに行き着く必要はない。必要はないし、行き着かなくても、その極限の方向に向かって歩みが始まれば、それで十分人生の意味が見えてくる。私は、そう思います。
 確かに親鸞聖人は、「愚禿鸞(ぐとくらん)」と名告(なの)られた。その帰るべき愚かさに向かって歩まれていくなかで、親鸞聖人がなさったことは、最高の智慧と理性と論理をもって、仏教の最高の問題を考え抜くということだったわけです。だから帰るべき愚かさというのは、いわゆる相対的な愚かさではない愚かさです。比較して愚かになるのではなくて、根源的愚かさを自覚するわけです。そのためには、どれだけ歩んでも終わりがない。そういうように、本願の教えをとおして、本当に愚かさに帰る道をつけてくださった。では、帰れるかというと、容易なことではありません。容易なことではありませんけれど、その方向性が見えてくるわけです。
 
■ 世間を生きる
 「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と言われるような、罪悪深重(じんじゅう)の衆生が共に生きている場所、自我の煩悩が重層的に積み重なった空間が、われわれが生きている世です。お互いに愚かさを生きているという、この抜き差しならない場所に立って、しかも勝つというようなことがはたして可能なのか。これは難しい。だから、逃げ出したくなるわけです。どこか世の外へ出て行ってたすかるような発想、そういう方向性で仏教が理解されてしまうのは、結局、仏教を求める者の立場が本当に確立できていない弱さであると思うのです。
 なるほど、出世間的な方向で呼びかけるということ、それは無意味ではない。確かに、世間のなかだけで勝ち抜く方法が知恵だという誤解がありますから、ある意味でこれを突き抜ける方向へ呼びかけるために、「出世間(しゅっせけん)」という言葉は意味をもつわけです。もつのだけれど、文字どおり出て行くという方向に真理があるのではなくて、むしろそこから帰ってくる。われわれは、世間を生きているわけですから、生きている場であり、生きている環境であるこの世間というものを本当に見直すことができないなら、自分を見直すこともできない。世を捨てて、自分だけ逃げ出してたすかろうとするような自分なら、結局、逃避心に負けた自分ですから、世を大地にして生きる本当の存在になることはできない。
 私は心弱い人間で、どうしても逃避心から脱却できない人間ではあるのですけれど、しかし、この『無量寿経』の教えというものを本当にいただいて歩んでみると、どっちみち逃げても逃げられないし、愚かさとか弱さというものは、自分一人だけではない。この世を生きるみんなが、そういう命をお互いに生きていて、この世をいっしょになって汚しているのであり、だからこそ、その場所で、本当に生き抜くべきであると。それが成り立つ教えとして、この『無量寿経』が説かれた。こういうふうに親鸞聖人はご覧になって、「末法濁世(まっぽうじょくせ)には、この道一つだ」と教えてくださった。この教えを説くためにお釈迦さまはこの世に生まれられた、出世本懐の教えだと。そういうふうに見られたということは、非常に大事な意味があると思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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