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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第18回、19回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第18回では、「無上殊勝の願」について、第19回では、「回向の起点としての『超発』」についてセンター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行なわれた第16回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

道場の学問

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 道場
 『無量寿経』に、「我仏に作(な)らん、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙(きみょう)にして、道場(どうじょう)、超絶(ちょうぜつ)ならん」(『真宗聖典』12頁、東本願寺出版部)とあります。「奇妙」は、現代語の奇妙奇天烈(きてれつ)の奇妙ではない。「妙」という字は、たえなる、すばらしいという意味をもっております。鈴木大拙先生は、この妙という字を wonderful と訳すのです。wonderful という言葉は、逆に日本語にしようとするとよい翻訳語がないのです。すばらしい、すてきな、不思議なと、いろいろと言ってみるけれど、wonderful という感動をぴたっと表す日本語がない。この妙は、wonderful なのですね。奇は、希(まれ)であるということで、滅多になくてすばらしい。そういう意味です。それが日常語になると、へんちくりんでわからないという意味になってしまう。どうも仏教語は、日常語で残るときには、大体悪意のあるものに変ずる。いま残っている仏教語を尋ねると、大概あまりよい意味ではないのです。大事な真理を表している言葉なのだけれど、その真理ではなくて、悪い意味で残る。どうも困ったものですね。
 「道場」という言葉は、これはいまも生きておりますが、道の場ですね。道は中国語でタオという。これは人びとが歩くところが、もともとの意味でしょうけれど、何か共通してみんなが歩んでいけるような、往来できる道という意味をもってくる。そして、人間が自分の精神的な糧かてを求めて生きるときに、その生きる方向性とか生きるよすがになるようなもの、自分の忘れてはならない精神的な支柱、そういう意味が道に出て来ます。こうした意味が普遍化されると、茶道とか柔道とか、何でも道が付くわけですが、仏道というのも、仏を求めて歩むということが、道の意味をもつということでしょう。その道が一旦確認されると、その道を歩むことで、道心、道の心が鼓舞され、道を思い起こすことによって、心が壊れていかない。そういうような意味を、道という言葉がもってくる。
 道場というのは、そういう道を生み出してくるような場。剣道場とか、柔道場とかいうのは、そこに行けば、共にその道を求める人たちが、そこで道を養える場所です。仏教の道場も、仏を求める人たちが、そこで生活したり、そこに行くことにおいて、仏を求める心が鼓舞される。そういう場所が、道場という意味をもっている。
 だから、法蔵菩薩が国を造る、その国が浄土という意味をもってくるわけですが、そこは道場という意味をもっているわけです。そこでお眠りくださいと言われたりすることがありますけれど、眠れるどころではない。仏道を求める場所が、浄土です。寝るために行くのならば、道場ではなくなります。その道を自らも生き、人びとと共に実践する場所が、道場です。
 
■ 近代の学問
 近代に入って、段々、道という言葉もすたれてきましたし、この道場という言葉も何か狭い概念になっていったふしがあります。
 清沢満之が、明治34(1901)年10月、いまから、百年ちょっと前ですが、東京に大学を建てた。その開設のときに、開学記念の会を開催した。その会に、当時の文部大臣やら東京の知事の祝辞がよせられたという意気軒昂(けんこう)な時代です。その席で、この大学は自信教人信(じしんきょうにんしん)の誠(まこと)を尽くすべき人物を養成する学場でありますと、開学記念講演をしたと伝えられております。つまり、これは仏教の道場ということでしょう。
 近代の大学、特に日本の大学は、サイエンスが学問だと。つまり、人間の対象になるもの、対象界を研究することが学問だ、そういう学問概念で、大学と称する教育の最高機関というものが設けられ、そこで研究、教育をするときには、学問とは科学であると。ですから、道場という概念の大学というのは、まあ、矛盾概念といいますか、自己関心、自己を育てる関心というものを、どこかでさえぎるようにして、外側の客観的な、誰でもが証明したり、検証したりできる世界の論理やら内容やらを研究する。仏教というようなものも、文献学、古代語の研究とか、古代文献の研究ということが、学問だと。こういうふうに考えられてしまった。学びというものの質が、何か人間そのものをどこかで非常に強くネグレクト(neglect)してしまう。そういう傾向性が強く近代日本を牛耳ってきたのではないかと思います。
 私は、忘れもしないのですが、70年安保の時に、大学で職を得たばかりでしたが、学生から散々怒られました。お前のやっていることは学問ではないと。客観的なものをちゃんと研究するのが学問だ。お前のは何だ。自分の主体を研究する、そのようなものは学問にならないと。だから、先生によってはやめてしまうわけです。たとえば自分は小説を書きたいとなったら、学問はやっていられないということになる。そういう学問が、圧倒的に力をもったのが、近代の日本の大学ではないでしょうか。
 客観的なものをひたすら研究するのが学問であると、そういう誤解が学問という言葉についてしまった。ですから、道場であって学問をする。そういう学びがあるのだということ、これは非常に大事なのではないかと思います。それを失えば、仏教の学びをする大学は成り立たない。文献学だけであったら、道を求める人間が学問をするということが学問ではないということになったら、非常に貧困な人間しか育たないことになります。ですから、近代をおおっている、そうした学問観は改められなければいけないのではないか、そういうことを思います。
(文責:親鸞仏教センター)
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