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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第22回、23回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第22回では、「本願文(第四願<無有好醜(むうこうしゅ)の願>)」について、第23回では、「本願文(第五願<宿命通の願>)」についてセンター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者・一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行なわれた第19回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

無限なるものの小さな芽吹き

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 本願のわかり難さ
 本願とは何だといったなら、有限と無限の矛盾を突破して、無限が有限のところに形を顕(あらわ)そうという願い。有限が有限の中で何か自分の好きなことを要求するというのが、普通は願いという言葉でしょうけれど、そういう願いという言葉を使いながら、方向がある意味で逆である。つまり、有限が無限になっていこうとか、自分の所有欲を無限にふやしていこうとか、有限の情況を自分に都合のよいようにどんどん変えていこうとか、そういう願いではない。まったく逆に、無限なるものが、有限なるところに、有限が本当にたすかる可能性を開く。  その本願とは何であるかということがわかり難い。人間の願いの一種であろうと考えて聞きますと、何の意味があるのかよくわからない。かといって、人間の願いではない願いなのだなどといくら言われても、これまた何もわからない。人間の側から起こす願ではなくて、人間に向かって起こす願。これはわかり難い。人間がものを考えるときに、自分からものを考えますから、自分に向かってくるという発想をしても、わかり難い。  よく一般に、浄土教の願について、願われているという言い方をします。自分は如来から願われている身だという教え方をする。受身形で願を感ぜよと。これも、どうもわかったようでわからない。例えば、子どもは親からきちんと育って欲しいと願われているではないかと。ちょうどそのように、われわれ凡夫は、如来からちゃんとたすかって欲しいと願われているのだと。願われている存在として自分を感ぜよと。まあ、譬喩(たとえ)としてはわかり易い。けれども、譬喩はわかるけれども、如来との関わりはわかり難い。如来がどこにいるのかわからないのに、それから願われているとはどういうことだと。つまり人間から無限を考えて、無限を如来とか仏とかという言葉で表しても、人間から考えた場合にはどうしてもわからない。  向こうからこちらへはたらいて来て、こちらに発起(ほっき)する。ですから、起こる事実は、われわれの有限のところに何らかの形で発(おこ)らなければ、われわれはわからない。単に受身形ではわれわれはわからない。そこが、私自身も長い間教えを聞きながら、何か論理がごまかされているような感じがして、譬喩では、情念的にはわかるけれど、どうもわからない。お前は如来の大悲に救ってやりたいと願われているのだと思えと言われても、全然、救ってもらえるようになっていく気配がないではないかとしか感じられない。どうもそこがわからないという感じであったのです。
 
■ 内になった他
 つまり、他力というのは、自分があって、外に他力があるという発想ではないのです。親鸞が、他力は本願力だと言うときには、その本願力は内になった他、内在になった超越です。その内になった他ということを明らかにしようとして、非常に苦労された。単なる外であれば、お前は本願によってたすけられるのだ、お前は本願によって願われているのだ、そういうように受身形でものを考えろと、そういう論理でたすかるということなのでしょうけれど、どうもそれで親鸞という人は納得できなかった。むしろ、自分の積極性といいますか、自分の中に発るものの平等性、そういうことを明らかにしたかった。  だから、どうしても親鸞聖人にとっては、本願成就の救いは回向を潜(くぐ)らなければならないわけです。如来の回向ということは、無限なるものが有限に転ずる。自己を転じて他となって、他自身を救う。そういうはたらきを回向というのです。だから、無限なるものが有限になって、有限を無限に転ずるという仕事をする。そういうはたらきがないなら、大悲が衆生を救うということが、事実として衆生のうえに起こらない。そのために、親鸞は、回向成就の信心ということを徹底的に明らかにしようとされた。  私は、親鸞の表現するそうした救いに、非常に現代的な、本当に主体が成り立つ意味があると思うのです。主体なしに、ただ、受身形だけになれと。まあ、絶対受動という言い方もありますけれど、受け身になるためには、ひとまず受けるべき主体がないと受身形にもなれないわけです。何もないのに、受身形ということはあり得ない。まあ、柔道で、自分がばーんと倒れるのを受け身と言いますけれど、自分が倒れるのであって、何もないのに倒れるということは起こらないわけです。倒れるべき自分があって始めて倒れるわけです。そこに、我執が深く、罪が深いこの自分が大悲によってたすけられるという、その事実が発る基点がある。  単に有限と無限とがあって、そういう相対するものがあって、無限が有限をたすけてくれるのだという、そういう論理だけでは人間はたすからない。そこが、親鸞聖人という方が、回向という言葉を非常に大事な言葉として取り出して、回向の救い、つまり教・行・信・証、すべては回向であると。回向において始めて救いが成り立つということを徹底して言わざるを得ない問題がある。回向を潜ることによって、無限は単なる他ではない。無限が有限となって有限を無限にするという、そういう大きな動きをもった概念になる。相対概念ではなくて、相対を破ってはたらき出す概念になる。そういうことを、回向ということで顕そうとされたのではないかと思うのです。  何かがわれわれに起こる。有限が無限に触れうる可能性が、たねが小さな芽吹きをもったように、そこに芽を出す。そのわれわれの中に発ったものが、無限なるものの芽を本当にもち得る。そういうことが、無限の側からのはたらきとして有限の側に起こり得るということを何とか言おうとする。そこに、本願という言葉で言おうとする意味があるのではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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