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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第24回、25回が、東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第24回では、「本願文(第十一願)」について、第25回では、「第十一願文(続)」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行なわれた第20回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

地獄・餓鬼・畜生の無い国

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 地獄の苦悩
 法蔵菩薩が、その第一番目の願で衆生に呼びかける内容は、「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』15頁、東本願寺出版部)。我が国の中に地獄・餓鬼・畜生があるならば、自分はさとりを開かないと。
 地獄の苦悩は、源信の『往生要集』では、大変、迫力ある文章として描かれております。人間は、そういう文章を読むと、何かどこかで思い当たる節がある。例えば、葉が剣になっている樹がある。その上で、すばらしく美しい女性が呼ぶ。それは、つまり、この世で女性に迷惑をかけた、大変悪いことをした、そういう人間が落ちる場所だと教えるわけでしょうけれど、女性が呼ぶ。行きたいものだから、登ると、葉が全部下を向く。それをものともせずに登って、血だらけになり、肉が裂け、骨が傷ついて、上についたら女性が居ない。どこに行ったかと。下に行っている。また、下で呼ぶ。来てほしいと。下りて行こうとすると、今度は葉が全部上を向く。そんなような、ひどいことを描いているのです。そのようなところに落ちるのは嫌だと思うと同時に、自分も落ちるなという感じもするわけですよ。人間として、この地獄・餓鬼・畜生というようなものを嫌うのですけれど、嫌っている人間自身が、地獄・餓鬼・畜生を持っているのです。
 地獄・餓鬼・畜生を持っている人間であるからこそ、本当にそれを超えたような場所を与えようと。地獄・餓鬼・畜生があるなら正覚を取らないということは、地獄・餓鬼・畜生が満ちているこの娑婆を見捨てるのかと。そうではない。むしろ地獄・餓鬼・畜生が満ちている場所にはたらいて、地獄・餓鬼・畜生を突破できるような場所にする。地獄・餓鬼・畜生の存在をこそ摂して、その苦悩から解放して、我が国土の衆生としたい。これは、本当に実現するとなると、測れないような時間、つまり「兆ちよう載さい永よう劫ごう」と語られるような物語的時間がかかる。永遠の努力をしてでも実現したいという願いと、その願いが課題とする内容。こういうことが教えられると、われわれは、そう簡単にたすかる存在ではないということに気づかされると共に、 どれだけ深い罪であってもたすけずんば止まんとはたらき続ける願いがあると気づかされる。
■ 寿終わりて
 続いて第二願では、「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿(いのち)終わりての後(のち)、また三悪道に更(かえ)らば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』15頁)と。地獄・餓鬼・畜生を三悪道と言う。地獄・餓鬼・畜生は無い。しかし、そうした寿が終わった後に、また三悪道に更るならば、正覚を取らないと。これは、第十五願にいきますと、浄土に生まれた人は寿命が無限であると言っているのです。しかし、その第十五願には、自分で寿命をちぢめるのは自由ですよ、ということがついているのです。つまり、永遠の寿はいらない、有限な寿の中で自分の存在の意味を尽くしてはたらきたいと、そういう人間は、浄土から自由に出ていってよいと。でも、そうして出ていくときには、ちゃんと阿弥陀の功徳が必ずついている。これが還相(げんそう)回向という意味になるわけです。浄土の寿は無量ではなかったのかと。基本的には無量だと。でも、無量の寿をいただくということは、自由の寿をいただくということでもある。そういうことが背景にあって、ここで寿が終わるということが出てくるわけです。
 自分に都合のよいことだけを積み上げていきたいという願いが、どうしても人間の発想にはついてくる。それで人間が本当に満ち足りるかというと、満ち足りない。人間としての本当の喜びを求めて生きているのに、功利的な意味だけを価値として積み上げるということになると、人間存在の大切な部分はほとんど切り捨てられる。そういう問題が現代文明でしょう。どうもひどい状態だと思うのです。この頃、ますますそうです。確かに経済的に、物の豊かさとかは、もう満ち足りるほどに満ち足りたのだろうと思うのですけれども、何かおかしい。何か足りない。それをまた満たそうと思って、また欲望を起こしてしまう。求めている本当のところが分からないわけです。人間の中には、自分では分からない大切なものを求めながら生きている部分がある。それを清沢満之先生は、「人心の至奥より出ずる至盛の要求のために宗教あるなり」(「御進講覚書」)と。つまり一番の深みから出る、一番真面目な要求、激しい要求、これが宗教心だとおっしゃるのです。そういうものがどこかで人間を突き動かしている。
 だから、そういうものに出遇う時には、この有限の寿の中に、たとえ寿が終わっても充分に満ち足りるような意味がある。その譬喩として、ここで寿が終わるということを言うのではないかと思います。
 
■ 人間の中の深い願い
 とどまってずっと居ることが寿の意味ではない。たとえどれだけ去りたくなくても、この娑婆はいずれ去らなければならない。でも、充分に意味があったという寿でありたい。そういう欲求がどこかにある。人間は、その願いが分からないから、何か違う形でつくりたいと思う。銅像を造りたいとか、そのようなものをつくってもしょうもない、邪魔になるだけですよ。でも分からないのです、深い願いをもちながら。
 人間が居る限り、地獄・餓鬼・畜生はなくならない。少しずつよくしたら、いずれ無くなるだろうなどというのは、人間の見方が甘いのです。自分の心を観ずればよく分かる。地獄・餓鬼・畜生を消したら、私ではなくなってしまう。だから、自分からなくせないけれど、悲願なのだと。法蔵願心を聞くということが、われわれには与えられている。願心の通りになるとか、願心が自分に実現するとか、そういうことは出来ないかも知れないけれども、願心に照らされて、自分を聞く、自分を見直すのです。悲しい事実として私たちは、地獄・餓鬼・畜生から足が洗えない。足を抜けない。けれども、法蔵願心は、それが無い国を願い続けているのだということに気づくことは出来る。人間存在の罪の深さですね。それをつくづく思います。そういうことが、地獄・餓鬼・畜生について、第一願、第二願と、二度も誓うということかと思います。
(文責:親鸞仏教センター)
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