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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第29回、30回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第29回では、「第十四願」について、第30回では、「第十五願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第26回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

大涅槃を証する

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 願力の回向に藉(よ)る
 本願の第十一願は、「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚(じょうじゅ)に住し必ず滅度(めつど)に至らずんば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』17頁、東本願寺出版部<以下、『聖典』と略記>)と誓われている。この第十一願を、親鸞聖人は、『教行信証』の「証巻」の課題にしております。この第十一願をあげて、その隣に、『大無量寿経』の異訳の経典『無量寿如来会(にょらいえ)』の第十一願文を並べています。そこでは「もし我(われ)成仏(じょうぶつ)せんに、国の中うちの有情(うじょう)、もし決定(けつじょう)して等正覚(とうしょうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証せずは、菩提(ぼだい)を取らじ」(『聖典』281頁)と。「定聚」が「等正覚」に置き換えられ、「滅度」が「大涅槃」となっていることに親鸞は注意した。定聚に住するということは、等正覚を成ることだと。等正覚というのは、正覚、無上の覚(さと)りと等しい。いつでも仏に成れる、その一歩手前というような位を表す。だから、この位は、弥勒菩薩の位だと言われる。弥勒菩薩は、いつでも仏に成れるのだけれど、あえて一歩とどまって衆生を救う仕事をする。これもやっかいな話ですけれども、仏に成ってしまうと、本当に衆生の救いはできないのだと、こう大乗仏教は言うのです。  「証巻」の初めに、親鸞は「しかるに煩悩(ぼんのう)成就(じょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)、生死(しょうじ)罪濁(ざいじょく)の群萌(ぐんもう)、往相(おうそう)回向(えこう)の心行(しんぎょう)を獲(う)れば、即(そく)の時に大乗(だいじょう)正定聚(しょうじょうじゅ)の数(かず)に入るなり」(『聖典』280頁)と。即時に正定聚の位を得ると。それが本願が誓う浄土の利益です。「即」という字、これは、大乗仏教の論理展開の大切な言葉です。即とは時を隔てないことだと親鸞は注釈する。場所も、時間も、ちょっと待ってという話ではない。今、ここでということです。  そこに、「往相回向の心行を獲れば」ということを挟んでいますでしょう。これが親鸞聖人の大切な押えなのです。つまり信心ということは、願力回向の信心である。「証巻」を結ぶようにして親鸞が書いている言葉は、「大涅槃(だいねはん)を証することは、願力の回向(えこう)に藉(よ)りてなり」(『聖典』298頁)と。涅槃とは、仏教を仏教たらしめる大事な標識。仏陀が苦悩を本当に超える、それが衆生をたすけるということだというときに、大涅槃に、われひと共にふれていく以外にない。そういう課題が第十一願で出てきているわけですが、大涅槃を証するという、この仏教の大目標は、願力の回向に藉ると。この「藉」という字は、借りるという意味ももっている。「本願力の回向」という言葉が『浄土論』(『聖典』145頁)にあるわけですが、回向自身が本願力に藉る。つまり、われわれの回向ではない。われわれが何かに振り向けようとしてやる、われわれの意思の行為ではなくて、われわれに呼びかける大きなはたらき。本願力回向ということは、本願のはたらきが人間にまで来ると。無限なるものが、有限の中に入って有限を気づかせる。そういうふうに親鸞という人は、回向という言葉を領解された。
■ わからない本願力
 われわれは自分の力とか、自分の意思とかはわかるけれども、本願力というのは、まったくわからないというのが一つの壁なのです。親鸞にとっては、われわれがわかるような心やら意思は全部虚偽だと。人間存在の根本が、煩悩と共に生きているのだから、そこに起こる意欲やら意思、全部が本当のものではないと自覚表現されるわけです。そういうことを気づかせるはたらきが本願力だと。自分は正しいのだ、自分は自分でやれるのだという思いでわれわれは生きていますから、その限りでは、本願も本願力もまったく見当がつかない。いくら外に探してみても、手に入るものではない。太陽があったり、地球があったりするように本願があるわけではない。説明してわかるものでもない。説明してわかるようなものであったら、仏教の教えの言葉にならないのです。念仏はなぜ浄土に生まれる種か。本願がそう誓っているからだと。本願とは何だと。何だといってもわからない。信ずるほかない。信ずるほかないということは、自分の虚偽を外から照らす光の如くに、闇に差してくるという形で言葉が立てられている。自分がそれによって照らされてみて、そういうはたらきが真実なのだと信ずる。
 「大涅槃を証する」という大テーマ、人間にとっての課題は、本願力の回向に藉るのだと。つまり有限なる人間が、自分から求めて得るという発想であったものが、翻(ひるがえ)されて、完全に大いなるはたらきが照らし出す闇の場になる。能動形で考えていた考えがひっくり返されて、自分という存在が受身形になって、真実のはたらきに照らされる場となる。そういうことによって、大涅槃を証するという課題が、人間のものになる。
 
■ 迷いを平気で生きられる位
 「極楽」というけれど、涅槃だと。涅槃の楽を極楽と表現する。涅槃とは何だ。涅槃というのがわからないのです。法蔵菩薩は、四十八願を通して涅槃を荘厳する。涅槃とは、いうなら四十八願のようなものだと提出するわけです。
 正定聚ということは、大涅槃を必定する位です。必定するということは、無限に歩む位です。課題とぶつかりながら無限に悩む位と言ってもよい。悩みを恐れない位と言ってもよい。そういう立場を開いて、そこに腰が据わるのが正定聚。だから、親鸞聖人にとっては、「現生」に「正定聚に入る」と言う(『聖典』240頁)必然性があるわけです。現生は苦悩の場、悩みの場。でもそこにこそ本願の救いが来るのだ。そこに腰を据えて、煩悩の闇を生きるのだ。苦悩の命を生きることと本願の救いとは別ではない。こういう救いが、回向成就の信心の救いです。これはすごいことです。それが大乗仏教の救いだと、そういうことをはっきりさせた。
 無上涅槃には、信心をいただけば必ず至る。必ず至る位とは、どういう位かと言えば、迷いを平気で生きられる位。そういうことが成り立つのが、我ら煩悩成就の凡夫における「不断煩悩得涅槃」(『聖典』464頁)の救いだ、と言えるのではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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