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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第31回、32回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第31回では、「第十六願」について、第32回では、「第十七願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第30回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

長短自在の命

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 長短自在の命
 本願の第十五願は、「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿命能(よく)限量なけん。その本願、修短(しゅうたん)自在ならんをば除く。もし爾(しか)らずんば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』17頁、東本願寺出版部<以下、『聖典』と略記>)と。阿弥陀如来が仏に成るなら、その国の中の衆生はみんな寿命が無限であるのだと、こういう願を立てた。ところが、その後ろに「その本願、修短自在ならんをば除く」と。「修」は、おさめるという意味もありますが、長いという意味がある。だから、「修短」は長短ということです。ここの「本願」は、この場合は、一応は、浄土に生まれた人天の本願です。浄土に触れた衆生の根本の願い。その本願において、長かったり短かったり自在であるというものは除くと。
 除くといわれると、修短自在でない存在もあるのかとも思うのですが、どうもそうではない。みんな修短自在を与えられる。だから、「除」といっても排除という意味ではないのです。そうではなくて、除というのは、何かそこで存在の自覚に目覚めて、自らが自分で選んで立ち上がる。そういう意味がある。つまり、おもしろいなと思うのですけれど、無限に生きてもよいよという世界は、実は、どんな短い命でも、無限の意味があるということでもある。われわれのこの有限の命の中だと、比較相対して、少しでも長いほうがよいという、そういう考えなのですけれど、無限大の浄土の中では、自由自在である。つまり、修短自在ということは、人生の長い短いが問題ではないよということを、どこかで言い当てているのではないかと思うのです。だから、第十五願は、浄土を建立して衆生を招き入れるのだけれど、浄土に触れるということは、みんな浄土を離れて、短い人生で自由にできるということでもあるわけです。
 浄土に往かなければたすからない。無限な命が欲しいから、浄土に往きたいというのだけれど、往ってみたら、あなたはもう無限の命をもらったのだから、自由に、自分の命を短くしてよい。自由に出て行ってくださいと言われて、わかった、出て行きますと言って出て行けるのが、第十五願である。おもしろい話だと思いますね。
■ 一念の歩み
 つまり、有限な努力ということで言えば、時間は無限大に必要になる。けれど、無限大の願心が衆生にはたらきかけたいということになれば、本当は、われわれの時間の中にはおさめきれないようなはたらきが、一瞬にして来る。譬喩(ひゆ)で言うと、ものすごい速さで走っている短距離走をしている人を、早いシャッターで、ぱっと撮ると、止まったごとくに見える。止まったごとくに見えるけれども、本当はものすごいスピードで走っている一コマである。そのように、われわれの時間の中に、無限大の時間をかけるような課題が切り取られて、一瞬にして与えられる。
 ちょっとわれわれには、それは信じ難いのです。やっぱり時間をかけてやらなければいけないのではないか。よいですよ、やってください。無限にかかりますよ。でも、そうではない道もあるのだと。有限から無限に行くのではない、無限が有限に来る。だから、「修短自在」ということは、浄土に触れたら、極端に言えば、一瞬でよいということです。無量の寿命がある世界にもし触れるなら、一念一念の中に、無量の寿命の意味が来る。長く引き延ばして無限になるのではない。そういうものに触れないと、何か、われわれの人生は、いくら生きても、何年生きても足りないとしか思えないわけです。
 凡夫が、少し訂正して仏に成っていくと考えると、自力になるわけです。それで凡夫でよいのだと開き直ったら外道に堕するわけです。念仏ということは、念仏の一念に無限大の功徳が来る。では、一声でよいのかといったら、いや、一声でよいとはいわない。縁のある限り称えなさいと。無限の功徳が来るのなら、無限を二倍しても三倍しても功徳は同じでないか。いや、その時その時が勝負なのだと。その時、その時に、全部が来ることを生きる。だから、一念に全部がありながら、一念が歩む。一念が終わらない。
 
■ 念仏はいつでも出直し
 私は、頑固で、愚かで、愚かなくせに何か理屈ばかりこねているところがあるのですけれど、でも、こうやって長い間本願の教えを聞いていますと、有限な人間の自我がらみ、我執がらみの、自力がらみのものの見方、有限の自我を立てて、自我でどこまでも行けるという発想は間違っている、どこかで、それは本当は駄目なのだと気づかされる。これは、本当に不思議なことだと思います。そうすると、南無阿弥陀仏の一念に無上功徳を感ずるという力が来るのです。いや、俺は無限の時間がかかってもやる、七度生まれ変わってもやるなどと頑張っているうちは、この功徳に遇うことはできない。そういうことではないかと思うのです。
 自由自在ですよと。浄土の命に触れるということは、短いも長いも、どちらでもよい。無限なる光に帰ると、そこにもう無限に歩むということがあるわけです。一念一念、愚かな身において、無限の功徳をいただいていく。「歩む」というと、だんだんよくなるのかというと、一向に変わらない愚かな身を歩むわけです。
 もう何年か前ですけれど、念仏好きの聞法者がいて、その方と同席したときに、その人が私に、おまえは駄目だな、出直してこいと。はい、わかりました、出直しますと。いつでも出直しなんですよ、念仏というのは。だんだん立派になるのではないのです。それでは、何のために称えるのかというようなものですけれども、何のためにの、「ために」が無くなるのが念仏です。一念に無限の功徳をいただく。それが、菩薩道がここに成就するということである。そういうことが、この第十五願が暗示している問題ではないかと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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