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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの−『大無量寿経』を読む−」の第33回、34回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われた。第33回では、「第十七願(続)」について、第34回では、「第十八願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行なわれた第32回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

願が名であるということ

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 念ずるところにまします
 第十七願は「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししや)して、我(わ)が名を称せずんば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』18頁)と。自分の願を諸仏が認めて讃(ほ)めてほしい。讃めるということであるならば、我が名を称えてほしいと。もし讃めてもらえないならば自分は居ない、自分は仏に成らないのだと。こういう願をもって、自己自身とする。
 曽我量深先生に、ある方が、自分は生まれて「南無阿弥陀仏」に育てられてきたけれども、どうもわからないと。大体、如来さまはどこにおられるのですかと質問された。それは、如来さまは、南無阿弥陀仏としてましますと。南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と念ずるところにましますと、こう答えられたと。そういうことを聞いております。
 つまり、称える人の居ないところに、どこかに抽象的に居る存在ではなくて、称えるところに現れる。称えるところに現にはたらいて来る。本願もそうなのです。本願というものがどこかにあるのではない。そういうはたらきを感ずる人のところに本願がある。あると言っても、物質がある如くにあるわけではない。人間の精神界にとってはたらきとして感ずるところにあるわけです。だから、ある人にはあるし、ない人にはない。龍樹的に言うなら、有無を超えてあると言うしかない。有る、無いを超えてある。
 つまり、阿弥陀の名は、単なる実体的な名詞ではない。何かを名指す名前が、普通は名ですけれど、今、この願における名は、称えられるところに名が具体化する。対象的に仏像になったり、名号になったり、書かれたものが仏なのではなくて、諸仏が讃めるところにはたらき出る。それが私自身だと阿弥陀は言うわけです。
 この「諸仏」というのも、諸仏とは誰なんだという話になりますけれど、諸仏も実体ではない。諸仏も、称名するところに諸仏が諸仏の意味をもつと言ってもよいかもしれません。誰が諸仏だというのではない。諸仏がすでに居てというより、称名するところに、この阿弥陀の願に賛同するところに諸仏が成り立つ。「南無阿弥陀仏」という称名が成り立っているところに、阿弥陀如来がましまし、阿弥陀如来がましますところに諸仏が成り立っている。
■ 実体的な執(とら)われ
 私も抵抗があったのは、どうしても名があると、名前に実体的な何か執われが出て来てしまう。そうすると、イメージとして仏像があって、 仏像に名前がついているのだと思いますから、そんなものは信じられんと。まあ、私も若気の至りで、寺で育てられていながら、何でこんなものを拝むのだ、木を彫っただけではないかと。 生意気に青年期にはそういうふうにしか思えない。それで父親と喧嘩をしていましたけれど。
 それは、結局、意識の対象にある実体しかわからない。人間の感覚の対象しかあるものを感じられない。見えざるものを信ずるというのは、迷信だと思ったし、そういうふうに教育されましたから、そうすると、名前があってそれを信ずるというのは、実体があるのだろうと。阿弥陀仏というのはどこにいるのだと。そんなものはいないではないか。いないものを信じて何になるのだと。まあ、青年期はそんなふうに考えて、いないものに名がついているものは全部信じない。そういうふうにして生きようと思ったことがあったのです。名というものが、物質とか対象に名付けられるだけではない。宗教的なるものを語ろうとする時に名付けられることがあるなどということは、まるで考え及ばなかった。これはなかなかわからないところですね。何でも見えるものにしなければやまんという。
 
■ 名詞が動詞である
 第十七願というものをもって名とするということは、名が実体ではない。願が名であるということです。それは物ではないし、実体でもない。願がはたらいて成り立っている事実を押さえている。ですから、阿弥陀の名は、単なる名詞ではない。これも曽我先生がおっしゃった言葉ですけれど、阿弥陀の名号は名詞ではない。動詞であると。つまり名号は本願である。名であるけれど願である。願を失わずして名である。名詞だけれど、動詞である。動詞のままに名詞である。こういうことが、親鸞が「行」と言う意味だと。親鸞は、称名は南無阿弥陀仏だと。名号だと。名号が行だと。こう言っている。名号と称名と行とが一つになっている。名詞が動詞であるということです。
 仏教の言葉は、我(が)を払う。ということは、実体を払うわけですから、全部本当ははたらいているもの、動いているもの、作用しているもの、それをあらわす言葉なのです。たとえば「見」と書くけれども、見るという作用があるのであって、見という物があるわけではない。願も、願という物ではなくて、願いがはたらいて来ている。それが具体的にどうはたらくかといったら、苦悩している人間に如来の願いが響いてくる。自分が苦しんでいる。いや、そうではないと。お前の苦悩になって歩んでいる、もっと大きな願があるぞと。そういう教えの言葉が響いてくると、「ああ、願がまします」と。
 こういうふうに第十七願を根拠にして行ということを押さえていくことによって、仏も実体化され、浄土も実体化され、人間の外に仏もあるし浄土もあるという、そういう教え方であったものが、本願のはたらきを信じて、その本願の言葉を自分自身に受け止めた人のところにはたらくものとしていただかれてくる。単に神話的な実体化された世界を信ぜよと言っているのではなくて、妄念を破って生き生きとした信念をそういうように具体的な形で、いただいていけるという教えになってきていると思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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