親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 公開講座 親鸞思想の解明
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの−『大無量寿経』を読む−」の第36回、37回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、「第18願(続)」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行なわれた第35回からその一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

信ずる自覚

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 深信自身
 善導は、『観無量寿経』の三心の「深心(じんしん)」を釈して、深い心というのは、深く信ずる心だと。何を深く信ずるかというと、一つには、「自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もつ)し常に流転(るてん)して、出離(しゆつり)の縁あることなしと信ず」(『真宗聖典』215頁、東本願寺出版部)と。だから、自分から仏に成るなどということはできないと深く信ずる。これを第一深信というふうに申しております。二つには、仏の本願の力が摂取して、必ず浄土に往生せしめるはたらきをもってわれわれを包むのだから、それを信じて、それに乗る。「かの願力に乗じて、定んで往生を得(う)と信ず」(同)と。これを、後の人間が、第一深信は「機の深信」、第二深信は「法の深信」、仏法そのもの、本願のはたらきそのものの深信だと。
 この第一の機の深信を、親鸞聖人の『愚禿鈔』では「深信自身」、自身を深く信ずると。この自身を深信するという言葉を曽我量深先生が取り出して、「自身を深信す」というテーマで講演をされた。その時は、本当に不思議な感じがしました。自身が曠劫より已来流転してきて、出離の縁がない。つまり、たすかるような縁は与えられないのだと信ずる。それで曽我先生は、本当にたすからない身だと信ずることができることが、自分を深く信ずることなのだとおっしゃるのです。曽我先生は、親鸞の三心の理解の言葉は、徹底的に機の深信だと。つまり徹底的に否定形でいただいていく。人間は不実である。虚偽である。罪業である。真実ではない。如来のみが真実。人間は徹底的に嘘である。
 普通の理解では、自身を信ずるというのなら、自分の可能性とか自分を善しとする、何かそういう肯定的なものを信ずるというのが普通の理解で、だから、それは自尊心とか、自負心とかと重なるような自身です。ところが、それがいかに頼りないか。いかに迷信とか邪信とか、あるいは教育とか情報とかに巻き込まれて嘘を信じてしまうか。情報をみんな信じて一緒にひっくり返されるわけです。でも虚偽の中で人間は何かを信じて生きている。そういうあり方でたすかろうとするけれど、たすからない。そういう時に、信心でたすかるとはどういうことか。逆に、そういう時に、さとりではたすからないとはどういうことかを、親鸞という人は徹底的に考えたのです。深く自身を信ずる。その自身の内容は、曠劫より已来流転してきた身である。自身がたすかる可能性がないと信ずることが、どうやってできるのか。ここに大きな謎があるのです。
■ 法蔵菩薩の自覚
 曽我先生は、これは結局、自覚の問題だと。自覚といっても、自分の意識を自分で反省するような、いわゆる self-consciousness という意味の自覚ではない。人間が自分で自覚できるかというと、人間はどうしても甘くなるから、本当に深く自身はたすからない身だと信ずるなどということはできない。われわれは、中途半端なのです。やはりどこかでたすかるよ、どこかで自分は善い面もあるよと思いたい。徹底的にたすからない身だと考えたら、絶望だと考えてしまう。機の深信は絶望ではない。法蔵菩薩の自覚なのだ。物語でいうと、法蔵菩薩は「十方衆生よ」と呼びかけて、あらゆる衆生をたすけたいという願心の名前ですから、願心の名前において自分を自覚すると、本当にたすからない身だということが出てくる。それは法蔵菩薩の心なのだと。こう曽我先生はおっしゃるわけです。法蔵菩薩の自覚は、それがそのまま、闇が光に転ずる契機なのだ。
 われわれは中途半端だと、自分も信ずることもできないし、如来の願いを信ずることもできない。だから、曽我先生は、親鸞は地獄に足をつけているのだという表現をされるわけです。自分の存在は地獄に足がついた存在。地獄に足をつけて立ち上がって、浄土の空気を吸う。こう表現するのです。
 
■ 回向の信心
 結局、信心によってたすかるということは、深く存在を自覚することによってたすかるということなのです。たすけてくれるものがあるからたすかるのではなくて、信が成り立つとたすかる。その信の構造は、内にたすからない身の自覚と、たすけずんば止まんという願のはたらきとのぶつかる場所が、ここだと。こういうふうに教えられて、それを信ずる。だから、こちらに何かまだ能力があったり、可能性があったりする間は、如来は要らない。物語も要らない。まったく自分には可能性がないのだと信じられるときに、大きな物語が信じられる。そういうふうに法蔵菩薩の物語が信じられてきたのが、浄土の教えの歴史ではないかと思うのです。
 そこに本願という願いが語られて、願いの一番中心は信心だと。この信心の質を、親鸞は回向の信心というわけです。大悲が、衆生を救いたいという慈悲に全力注入する。それが回向だと。信ずることができない人間に、信を与えたいというのが回向の信だと。回向の信をわれわれが感ずることにおいて、信一つでたすかる。信一つでたすかるということは、信ずることにおいて自覚が成り立つ。深く自分がたすからない身だと信ずるという自覚です。自覚の覚が、さとりという意味ではなくて、自分自身の愚かさを深く気づく。反省してわかるのではなくて、反省が届かない闇が教えられる。
 どこまでも愚かな身であり、どこまでも自力の心が抜けない身であるという、そういう悲しみを抱えながら、法蔵願心を信じていこうとした。そこに親鸞の一生の歩みがあったわけです。たすからない身であることをずっと感じながら、にもかかわらず法蔵願心を信ずるときにたすかるのだと。だから、地獄に足をつけて歩むのだというのです。そういう不思議な仏教が、信心の仏教として教えられている。そんなふうに私は、親鸞独自の信の構造というものをいただいていくことができるのではないかと思っているのです。
(文責:親鸞仏教センター)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「『教行信証』と善導」研究会会 「三宝としてのサンガ論」研究会」研究会
親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス