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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの−『大無量寿経』を読む−」の第40回〜42回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第40回、41回では「第十八願(続)」について、第42回では、「第十九願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、その第40回から一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

悲しきかな、愚禿鸞

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 「悲しきかな、愚禿鸞」という表白
 親鸞は、「信の一念」ということを押さえ直して、「『一念』は、これ信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時剋(じこく)の極促(ごくそく)を顕(あらわ)」すと(『真宗聖典』239頁、東本願寺出版部、<以下、『聖典』と略記>)。時剋の極めてはやい時、時だけれども時を截(き)っている。時間のなかにあって時間を破るような時間。そういうものが一念の信だと。つまり、時間をかけて段々にどうにかなっていくという発想を截るわけです。少しでもよくしていこうという発想をすぱっと截って、「横超断四流(おうちょうだんしる)」(『聖典』243頁)、本願力のはたらきがわれわれの存在を横ざまに截って、迷いの命を断ずる。つまり、ある意味でそこに死ぬという意味があるのだと。これは、曽我量深先生は、善導大師の「前念命終(ぜんねんみょうじゅう) 後念即生(ごねんそくしょう)」という言葉を手がかりにして、「本願を信受するは、前念命終なり」(『聖典』430頁)という『愚禿鈔』の言葉をヒントにして、信に死すると。信ずるということは死ぬことだと。本当に本願を信ずると決断するということは、完全な受身。ということは、自力の思いに死ぬということなのです。自力はもう役に立たんということを徹底的に知らされる。
 そこに「にもかかわらず」という問題が残ってくる。「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)」(『聖典』251頁)という有名な表白がそこで出てくるわけです。回向の信心ですから、根拠が如来のはたらきにある。如来のはたらきにおいて、われわれは不実であり、本当に信ずることなどできない身であり、そして本当に願生するなどということがない身であると。『歎異抄』第九条にあるように、やはり少しでも長生きをしたい、正直なところあまり浄土に往きたくありませんと唯円が言う。それでこそ凡夫なのだ、当然だと親鸞聖人は受けるわけです。そんな心ではだめだ、しっかり願生せよ、そのようには言わない。「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」(『聖典』629頁)と。もうわかっているのだと。それは、生死の凡夫ですから、生死の凡夫を直していこうという発想を完全に止めて、もうそのまま凡夫であることを認める。となると、そこに「悲しきかな、愚禿鸞」ということが出てくるわけです。
 「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入(い)ることを喜ばず」、「愛欲の広海」、これは、煩悩具足の生活空間です。「名利の太山」、人間関係のなかで少しでも人からほめられたい、少しでも利益を得たい。そういうのが凡夫の本質である。全面的におまかせすると言いながら、煩悩がある。ということは後から後から自力の心が湧いてくる。嫌な心が起こってきたと気がつけば、止めておこうと思いますから、それは、自力の心ですね。「定聚の数に入ることを喜ばず」。信心を得るということは、如来回向の信心なのだから、正定聚だよ、必ず大涅槃をいただけるのだと。でも、そういくら言っていただいても嬉しくない。これは信心がないのではなくて、如来のはたらきとして信ずるのだけれども、自力が消えない。そういう構造が信心なのです。他力の信心になったら自力根性が完全になくなって、もう人間でなくなるわけではない。人間なのです。愚かな凡夫なのです。
■ 「難治の機」
 「悲しきかな、愚禿鸞」と、こういう言葉を置いて、そして、救いがたい衆生の代表として愚禿鸞ということを見据えながら、「難治(なんじ)の機」(『聖典』251頁)、難治の三病、治療しがたい存在として、五逆、謗法(ほうぼう)、それから一闡提(いっせんだい)という三つの言葉が『涅槃経』ではテーマになっていると。こういうことを出してこられる。
 阿闍世(あじぇせ)が父親を殺して王位を簒奪(さんだつ)し、父親を殺したことによって、もがき苦しんで、そしてお釈迦さまの言葉でたすかっていくという、『涅槃経』で語られているその展開を、親鸞聖人は随分とていねいに読み込んで、順序を変えたりしながら引用しておられる。
 『教行信証』「信巻」の坂東本の表紙に、親鸞が書いたメモがある。そのメモは、「信巻」にある『涅槃経』からの引文で、阿闍世、あなたは王様になるのに自分の親を殺したけれど、そのようなことは歴史のなかにいくらでもある。その人たちはみんな地獄に行ったわけではないから安心しろと。そういうことを言っている段がある。その部分をどういうわけか「信巻」の表紙にメモのごとくに書いているのです。坂東本以外ではこのメモはない。だからちょっと謎なのですけれど、でも、ここだけメモしているということには、何か意味があるのではないか。
 自分の生きているということには、必ず他を排除したり、他を踏み台にしたり、あるいは他を食べたり、他の命を殺したりしてきて、それで今、自分が成り立っているということがある。自覚するしないに関わらない。深層の宿業のなかにそういうものがずっとある。例えば、私は今、寺の住職をしていますけれど、以前は父親が住職をしており、私が四十を過ぎたころに、親父がくたびれた、くたびれたと言って、寺の仕事をしたくなくなってきた。それなら譲ればいいのに、譲らない。そうすると、なんだ、この親父は、いい加減に譲ればいいのにとかね。さすがに殺そうとまでは思わないけれど、やはりそういう心は起こるわけです。そういうことはどんな関係でもないとは言えない。ただ、人間はそういう存在であるという罪に気づく存在である。もし気づかないなら、本願力の救いを本当に憑(たの)むということにはならない。
 親鸞聖人において、たすからない存在、本当に治療しがたい存在の代表は阿闍世である。しかし、その阿闍世の物語は単なる他人事ではない。阿闍世のそういう物語が自己の問題として、切実な問題として感じられるという素質が親鸞にはあるわけです。だから親鸞という人はドストエフスキーの立場であったら、小説を書けるような素質だったと思うのです。何か、そういう人間の深い傷を痛まずにおれない。また痛むからこそ、本当にその傷から治癒されることを要求するのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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