親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 公開講座 親鸞思想の解明
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第43回〜46回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第43回、44回、45回、46回では「第十九願(続)」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第42回から一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

念々に自力に死に他力に生きる

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 三願転入は一念の事実
 往生というけれど、往生にも三願(第十八願、第十九願、第二十願)に応じて三往生がある。こういうふうに親鸞は見た。「双樹林下(そうじゅりんげ)往生」から「難思往生」へ、難思往生から「難思議往生」へと、往生自身が歩む。不思議な考え方です。往生というのは、死んで往生するのではない。精神生活が歩むことが往生である。信心自身が純化して、自力が翻(ひるがえ)されて本願力に帰していくまでの歩みに、いろいろな往生がある。往生を一回するのではない。こういう見方をするわけです。
 この三往生も、三願の展開も、解釈学者などは、いついつにはここまで来た。その次の段階はここまでと。例えば、比叡山時代は第十九願、法然門下は第二十願、流罪以降が第十八願だと。そういうふうに段階を分けるのですけれども、われわれが仏教に触れ、仏道を生きるときの内容は、段階的に表現を分けることができることもあるけれど、でも、いつも重なっているのです。一念同時に重なっている。
 今の内容、今の思いに、過去の体験やら記憶やらというものも張り付いているし、未来の可能性も入っている。今の一念というものの展開を開けば過去と未来とに分けられるけれど、あるのは現在だと。こういう考え方からすると、これは曽我量深先生がおっしゃっているのですが、三願の転入は一念の事実だと。
 これはわかり難いことですけれど、わかり易い了解をして、一つ言ってみると、例えば、今、本願に帰して「南無阿弥陀仏」を信じていると。こういくら言ってみても、ちょっとした縁で、やはり自力の思い、自力の悩み、自力の迷いは起こる。それは、なくなるのではなくて、乗り越えているけれども、完全に切れているのではない。いつも縁と共に現象する。しかし、また間違っていたと気づいて本願に帰する。本願に帰する決断が一度もないと、自力のままもがいている。でも、一度気がつくと、自力が起こってもすぐ乗り越えていける。こういう生活が本願力に乗じて生きて行くということなのだろうと思うのです。
■ 念々に死につつ生きる
 第十九願は、人間の離れがたい自力の執心を教える。これをある意味で、本当にもう二度と立ち返らないというような信念になるのが、他力の信心である。では、それはいつなのだというと、今の一念の事実である。それを、死して生きる、「前念命終(ぜんねんみょうじゅう) 後念即生(ごねんそくしょう)」(『真宗聖典』245頁、東本願寺出版部。<以下、『聖典』と略記>)と。念々に妄念に死んで信心に甦(よみがえ)る。 そういう時が今「南無阿弥陀仏」と共に与えられる。
 何か図式化して、いついつまではこういうところ、いついつまではこういうところだと、そのようなわけには人間の経験はいかない。じわじわじわじわ生きて、じわじわじわじわ死んでいくわけでしょう。念々に死につつ生きている。信仰生活も念々に自力に死に他力に帰しつつ生きているのでしょう。帰し終わったということはない。
 だからいつでも念仏生活なのです。一遍称えたらそれでお終いというわけにはいかない。確かに親鸞聖人は、本願力に乗ずるところにもう生死を超えるのだ、もう二度と自力の妄念には返らないのだというように表現されることもありますけれども、人間はそうすっぱりといかないと思うのです。一度帰したらもう絶対他力でいい。理論ではそう言えるけれど、現実は、妄念の衆生である私どもは、一向に煩悩妄念から足が洗えない。泥沼のなかを生きている。でも念仏がいただける。気づくことはできる。間違っていたなと気づきながら歩んで行くのだと思うのです。
 曽我先生は、本願の教えには完成はないのだ、入門はあるけれど卒業はないのだとおっしゃった。われわれは何でも早く卒業したいわけです。さっさと足を洗って、いい加減に卒業したいと思っている。けれどなかなか現実の人間は、生きている間は、やはり妄念が抜けない。それが凡夫ということです。凡夫であるから真実信心は得られないのかというと、そうではない。凡夫であるからこそ本願力に帰する。「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身(えしん)すてはてて 法性常楽証(ほっしょうじょうらくしょう)せしむ」(『聖典』496頁)と。法性常楽を証するということと、煩悩妄念を生きているということとの境目に、本願力に乗ずるということがあるわけです。そういうことが、親鸞聖人が明らかにされた往生する生活の内容だと思うのです。
■ 人間は立体的
 第十九願位というのは他人事ではない。私どもが自力の執心をもって生きているところに、いつも何かささやきかけてくる。自分が何か善いことをやって善人になりたい。悪人であると気づく反面で、善人になりたいという思いを離れがたいのです。それが人間のかわいらしいところなのかもしれませんが、実はそこに、本当に本願を信ずるということが、どこか曖昧になっていく。
 この第十九願の問題は、そう簡単に三段跳びのように、いついつまで第十九願だった、いついつから第二十願、はい、今日からは第十八願ですと、そのようなわけにはいかない。一応開けば、そういう展望で歩んで来たと表現はできる。でも、現に生きている人間自身は立体的です。煩悩から足の洗えない人間が自力を完全に捨て去るなど、そのようなことはできないのです。凡夫ですから。
 しかし、本願力に帰するということがもっている意味は、自力の立場は間違いだと気づいたと。気づいたから捨てられるかというと、捨てたつもりでもやはりくっついているというのが、情けないかな、我らなのですけれど、でも表現としては、本願力に乗ずるところにもう「無生法忍(むしょうぼうにん)」を得るのだとまで親鸞はおっしゃる。そういう利益を煩悩の生活のなかにいただけるということを教えてくださっているのです。
(文責:親鸞仏教センター)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「『教行信証』と善導」研究会会 「三宝としてのサンガ論」研究会」研究会
親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス