親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」の第47回、48回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、「第二十願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第45回から一部を紹介する。
(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

存在の真理に対する疑い

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 自力の努力のうちにある疑い
 第十九願は方便化身土の願であるわけですが、その方便化身土を表すときに、親鸞は『大無量寿経』の後ろのほうの「智慧段」と言われている内容を引用している。そこに「疑惑」という言葉がある。疑いとは何であるかというと、仏教の定義では、「ちょっと待てよ」と、「猶予」というふうに定義されている。「ちょっと待てよ」ということは、そこですぐハッとわかって決断することができない。結局、仏の教えをそのまま聞けないのです。
 親鸞もこの疑いに随分苦しまれた。そこに方便化身土という問題も関わるのです。つまり、『観無量寿経』の救いは、九品に分けて、それぞれが努力して生まれていく世界をどうも語っている。それを代表的に九つに分けて、それぞれ違った人間に、違ったかたちで浄土が現れてくる。努力を呼びかけるということは、人によって努力の内容が違ってしまうのはやむをえませんから、立派な努力をした人間はよい世界へ行く。できなかった人間は地獄にでも落ちる。そのように見るのは当たり前です。でもそれでは、どのような命であっても平等に本当の救いを与えたいという如来の願いに背くわけです。悪人でも生まれられると。でも全部違う世界なのだと。人間が求めて得たとなると、そういう世界になりますよと。実は、それは本当の大悲に対する深い疑いなのだと。つまり、本願の救いを本当に信ぜよと言われているのに、先ほどいった猶予という問題が絡(から)む。やはり自分の努力のほうがわかりやすい。自分はこれだけ善いことをやったので、これだけ善い結果を得た、と思いたい。精一杯善いことをして、人の喜ぶことをし、人がたすかるようなことをして、自分は善人であると思って、その結果を得たと思っている世界は、実は深い疑いがある。そのことに気づけない。
■ 死後往生の考え方にある二心
 その疑惑は、結局、現在生きているということに対する根の深い疑いに関わっているわけです。自力で往生しようと考えることが疑いだとは自分では全然思わない。それは人間が積極的に疑う疑いではない。けれども、そこに存在了解として、実は疑いが関わっているのだと。
 疑いが関わるということは、ちょっと待てよということですから、今の時間を二分化して、「今」と「臨終」というように時間を二つに分けて、救いも二つに分けて了解しようとする。疑いを親鸞は「二心」というのです。二つの心でものを見ている。疑いがなくなるということは「一心」が成り立つということ。二心というのは、あっちのことも考え、こっちのことも気にしている。分裂しているわけです。みんな二心で生きているから、死んだら往けると教えられると安心するのです。今たすからなくても、死んだら往けるのならよいかと。現在はたすかっていないということです。そういう救いを仏陀はわれわれに呼びかけているのではない。親鸞は、この愚かな身のままにたすかるのだと。疑いが晴れるということが、たすかるということだと。われわれは、愚かな凡夫であり、深い疑いをもって生きている。そういう深い疑いに苦しんでいる人間に、如来は一心を与えたいのだと。
■ 自分自身に対する疑い
 われわれが普通感じる疑いは、このことはどうなのかな、という理性が感ずる疑いです。しかし、生きていること自身の根にある疑い、存在論的疑問、こういうものを親鸞は取り出してきたのです。これは対象を疑っている普通の疑いとは違う。自分の存在の成り立ちについての疑い。理性が対象を疑う疑いではなくて、存在の真理に対して、それを素直に受け入れることができないという疑いです。
 存在に対する疑いというものは、何を疑っているのやら、われわれはよくわからないのです。それはつまり、今、与えられてあることに自分が納得しない。今ある情況、例えば、男性であるということも、男性でよいのかどうか。女性であるということも、女性でよいのかどうか。あるいは、さまざまな因縁で繋(つな)がっている家族関係がこれでよいのかどうか。生きてきた軌跡、こういうふうに生きてきたがこれでよいのかどうか。そういうことの全部を包んで、今、自分はここにあるということを、本当に納得するかと問われれば、われわれは納得できない。あれも取り替えたい、これも取り替えたい、あそこも直したい、こちらもどうにかしたいということだらけです。これでよいとは、なかなか思えない。それは実は煩悩の身で感じている正直な事実なのです。そのことが存在に対する疑いなのです。だから現在たすからないのです。
 先日、この世に本当に偉い人がいるのだと思って、感心してお話をお聞きすることがありました。それは、カトリックのシスターの高木慶子先生という方のお話だったのですが、最後のところでおっしゃることは、われわれとほとんど同じだなと思いました。それは、与えられているままを、ありがとうございますといただくのだと。それが私の祈りですと。これは、ナンマンダブツ、ありがとうございますというのと、ほとんど同じだなと。それぞれ立場は違うので、言葉も違うし、歴史も違いますから、考え方も違うところがあるとは思いますけれど、結局、存在を本当に受け止める。与えられている一人ひとりの宿業因縁を本当に疑いなく受け止めるということが人間の課題であることには変わりはない。
 けれど、人間は受け止められない。それが疑いなのです。そういう質の疑いは、なかなか自分でも見えない。疑いというと外に対する疑いだと思っている。友だちに対する疑いや会社に対する疑い、一番近くは連れ合いに対する疑い、そういう一番近いところでさえ一枚にはなれないと思っているけれど、自分自身に対する疑いがあるとは思っていない。でも、それが実は人間がたすからない根本原因である。これを教えているのが、この第十九願ではないかなと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「『教行信証』と善導」研究会会 「三宝としてのサンガ論」研究会」研究会
親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス