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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第49回、50回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第49回では「第二十一願」「第二十二願」について、第50回では、「第二十二願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第47回から一部を紹介する。
(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

凡夫称名と果遂の誓い

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 凡夫称名
 第十七願は、「諸仏称名の願」といわれて、諸仏によって名が称えられるということがある。第二十願は、「設我得佛、十方衆生」(『真宗聖典』18頁、東本願寺出版部。〈以下、『聖典』と略称〉)とあって、衆生に我が名を称えてほしいという呼びかけになっている。衆生が称えるということは、与えられたものを行として凡夫という身で称える。それに対して、諸仏が称名するということは、阿弥陀如来の本願、願いに賛同しますよというかたちです。称えたから仏がもっと偉い仏に成るということはないのです。仏と仏とは平等である。あの仏より俺が偉いなど比較する煩悩がない。一人ひとりが一人ひとりの仏のあり方、仏地に住して、そして悠々と仏であることを喜んでおられる。そういう世界が開けている。凡夫の世界はそうではない。我欲と利権の世界ですから、あいつよりは上にいってやろうとか、逆にあいつより下に置かれたからといって怨むとか、そういう比較相対の世界です。そうすると、同じ念仏を行ずるということの内容が随分と違う意味をもっているということがあるのではないか。
 第十七願、「諸仏称名の願」こそが純粋なる大行だと。これにおいて名号は大行であり、大行が行ぜられてあるところに、絶対満足の一如の功徳宝海が開かれる。しかし、なかなか「南無阿弥陀仏」を聞いて称えるところに絶対満足があるなどと人間はわかりませんから、凡夫の考えでは今生きているところは不平不満だらけの、ろくな世界ではない。不平不満がない世界が欲しいと考えて、そのために何か行為をしたり努力をしたりして生きている。それに役に立つ行をくださるなら、それを一生懸命にやりましょう。こういう関心です。だから、凡夫称名、凡夫が称名するということになると、大行の事実にならない。
■ 定散自力の称名
 自分を支えているもの、自分を動かしているもの、そういうものは、みんな何か自分の根源から、違うものがはたらいていると気づくときに、自力から他力への転換が起こるのでしょうが、起こったときに飛びついたのが念仏でも、その念仏をまた自力で行ずる。だから、こういうご和讃がある。「定散(じょうさん)自力の称名は 果遂(かすい)のちかいに帰してこそ おしえざれども自然(じねん)に 真如の門に転入する」(『聖典』484頁)と。念仏に帰するのだけれど、「定散自力の称名」とおっしゃる。人間の側の心として、「定」、精神統一の心か、「散」、行動する心かというので、定・散の機ということをおっしゃるわけです。自分に縁のあったあらゆる行をやってみたけれどもだめだった。それでは、念仏ひとつを如来が誓っているのだから、それでいこうと。こうなるのだけれど、心根に定散が残っている。もともともっていた、自分が修行をしてどうにかなろうと思う、そういう自力心が「南無阿弥陀仏」を取り込もうとする。それをここで定散自力の称名というわけです。
 われわれが自分の我執のままに念仏すれば、念仏する動機といい目的といい、全部、定散自力だといってもよいのです。念仏したことによってちょっとは心が落ち着いたとか、称えていたら何かよいことがあったとかしかわかりませんから。それでどのようなことになるかというと、親鸞は「同行(どうぎょう)・善知識に親近(しんごん)せざる」(『聖典』356頁)ということを書いています。つまり、叱咤(しった)激励してくれるような友人やら師匠が見えなくなって、この世でこの程度ならよいと自己満足をして歩みが止まる。これは、人間が本当に歩むということが仏法であるなら、その仏法を忘れるということです。それはまさに三宝見聞(けんもん)の利益を失うという、化身土の宮殿の中のかたちとして親鸞が『大経』から引文するのとぴったり合うわけです。阿弥陀の世界に生まれたと思った途端に三宝、仏・法・僧がいなくなる。
■ 果遂の誓い
 第二十願は「果遂せずんば、正覚を取らじ」(『聖典』18頁)と結ばれている。第二十願を果遂するとは、第二十願の救いを成就するという意味もあるのでしょうけれども、第二十願の救いに止まってはならないという果たし遂げ方がついているとも見られるわけです。つまり、如来の大悲が衆生の気づきを勧めるために、「果たし遂げずんばやまん」という誓いをもってわれわれにはたらきかけている。たすからなかったのは、自分の根に本当に本願力を信じようとしないという問題があったのだと。名号を信じないわけではない。名号を信ずるのだけれど、それを使って何かよいことがくるだろうと称える。それは凡夫の行です。でもわれわれ凡夫は凡夫の行を出ることができないのです。凡夫としてこの世を生きていれば自力の執心は抜きがたい。この問題を親鸞聖人は第二十願の問題として徹底的に考えられた。
 どうしたらこれを抜けられるか。人間からは抜けられない。自分で出ることのできない闇がある。そのときに、果遂の誓い、本願力は、その闇をも破らずんばやまんとはたらき続けているのだと。一如宝海に帰るまで、どうか歩んで欲しいと願っている。それに気づけば、ひとりでに真如の門に入る。われわれから入っていけるものではないけれど、向こうから来てくださる門がある。「果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入す」と。こういう何か謎のような言い方で、第二十願のはたらきというものの大きさを教えてくださっているのではなかろうかと思うのです。
 ですから第二十願というものにおいて、われわれに気づかせる闇の部分と明るみの部分と、両面があるように感じられます。歩ませる批判原理として第二十願というものを親鸞聖人は見いだされた。第二十願に止まってはならない。第二十願を超えて、本願力を本当に信受する第十八願に帰してほしい。そういうはたらきが果遂のはたらきにある。こういうことかなと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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