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公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第51回、52回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、「第二十二願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第48回から一部を紹介する。
(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

宿業因縁(しゅくごういんねん)の命の自覚

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 「天国」を求める心
 法蔵菩薩の名前で本願が浄土をつくりたいと。その浄土のなかの命を「国中人天」と呼ぶことが多い。六道流転、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、この六つのあり方を命はぐるぐる回るというのが、インドの神話的な人間理解なのですが、どういう状況が与えられるかということも宿業因縁です。そのなかで一番よい状況が人天、人間と天上です。
 天上というのは広くいえば「天国」です。天国ということで、何か身体の物質部分がなくなって、精神的なものだけがあるようにイメージする。曽我量深先生は、仏教に触れないならばどのような宗教であっても、人間が求めるものは天国だと、おもしろいことを言っておられます。つまり、天人になりたいのだと。天人は身体がないから自由自在です。自由に飛んでいけるし、縛りがありません。つまり、宿業がないのです。
 行為した結果、その行為の蓄積が自分に集まって、自分だけではない、自分と一緒に生きている周りのものにも影響を与えて、そのことが不自由、縛りをもってくる。人間は、縛られるのは嫌ですから、自由でありたい。特に、ヨーロッパ近代の中心的な価値として、近代的自由ということが謳歌(おうか)されてきた。しかし、これは仏教からすれば天人なのです。もともと身があれば、身は親から生まれるのですから、親から生まれたとたんに、もう自由ではありません。自分で欲するような身体を自分で得たわけではないですから、はじめから宿業因縁なのです。それをヨーロッパの文明は近代的自由という概念を生みだして、あたかも人間が自由になっていけるような錯覚を与えました。
 だから、このごろはお葬式の弔辞で、亡くなった方は天国に行ったというように、多くの人が言うのは、これで自由になってよい世界に行ったのだと言いたいわけです。そういうふうに見たいわけです。それに何の矛盾も感じていないのが近代的日本人の常識でしょう。
 法蔵菩薩が、本当の人間を生み出すような力をもった場所を開きたい、という願いで国中人天と呼びかける。ところが、それを聞いて浄土を獲ようとする、そこに親鸞は深い自力の罪を見た。人間が願いとして思えるのは天国である。そこの衆生はみんな自由で、美しくて、お互い縛りがなくて、何かフワフワして、とてもよい場所、これに人間は弱いのです。その天国のなかに埋没していくようなかたちで、如来の世界を名号を通じていただこうとする。そういうことが第二十願というものが教えている、人間の脱皮できない深い闇である。
■ 宿業因縁の悩み
 曽我量深先生は「私は、知識人は嫌いです」と言っておられました。あんなに難しいことを言う先生の文章を、知識人以外の誰が読むのかと思うのですが、曽我先生が言われる「知識人」とは、自分はさておいて理性で論理を考える人のことです。そういう態度では本当の仏教の真理に触れることはできない。これは非常に厳しい言葉です。結局、宗教問題は評論家が何か対象を論ずるのと違って、自分自身の宿業に自分が傷ついて脱出できない悩みをどうしたらよいかという問題抜きに、出遇うことはできないと思うのです。天国を求めるような心では、本当の仏教の精神に触れることはできません。
 つまり、人間はどこかでわかるというかたちで安心し、自分のわかるところで納得するということがあるのですが、宿業因縁の問題はわかりません。なぜ私はこの両親から生まれなければならなかったのかと言っても、答えはありません。しかし、事実はあります。けれども論理的原因があるわけではなく宿業因縁があるのです。このことは、仏教がそういう言葉で呼びかけているのだと気づくしかありません。だから「業感縁起(ごうかんえんぎ)」という言葉があります。業に感ずる。感ずると言っても、単なる感情ではありません。感得すると言いますか、うなずくという言い方をするのですが、その出遇いを抜きに、たすけてくれるという感覚で本願をとらえることを親鸞聖人はご和讃で「疑心の善人」(『真宗聖典』506頁、東本願寺出版部)と言っています。よい世界に行くと信じて念仏を称えるのは、その「信」自身が疑い心なのです。善人というのは、天人と重なるような善人です。宿業を引き受けない心と言ってもよい。外側からものを見ている態度で、自分の実存的な責任を自分で本当に取ろうとはしないことです。
 宿業に縛られた存在、特に罪について、自分が罪の存在だということを、人は見たくもありません。自分の責任だとも思いたくもありません。結局、自分がこのように生まれて生きているということは、自分の自由に行為をした責任ではないのですが、これを生きるべく命が与えられているのだと引き受けるしかない。そういう意味の責任。自分でそれに気づけるかというと、気づくことができないので、明々白々に存在を照らし出すものを、如来の智慧と言うわけです。如来の智慧に照らし出された自己、これは嫌とは言えない。つらい因縁であろうと、嫌な因縁であろうと、そういう因縁を引き受けて生きるしかない。これを逃げて救いを求めるのは、その心が善人です。善人は天人であるというのは、そういうことです。自分自身のつらい嫌な面からは逃げて、よいところで生きていけると思いながら、そのために仏の名を称える。仏の場所は自由になれる場所だと思って、そういう世界を要求するその心は、実は深い疑い心なのです。
 仏教の信は、自己自身の成り立ちを深く知って信ずることです。この信のところに、いわゆる悪人正機や機の深信などと言われる、宿業因縁の命の自覚があるのです。そのことを本当に如来の智慧としてうなずくことができるということは、自分だけがそういう因縁に苦しんでいるのではなく、みんなそうなのだとうなずけることです。如来の智慧から照らされれば、みんな宿業因縁に傷つき、苦しみ、もがいているのだと。こうした眼のうえに本当の平等の世界を開いていこうとするのが、法蔵菩薩のお心であると思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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