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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第55〜58回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第55回では「第二十七願から第三十願」について、第56回では「第三十一願と第三十二願」について、第57回では「第三十三願と第三十四願」について、第58回では「第三十四願と第三十五願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第54回から一部を紹介する。
(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」

言葉が光の意味をもつ

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 迷いを切り開く力をもった言葉
 第二十五願は、「国中菩薩」、国の中の菩薩は、「一切の智(ち)を演説すること能(あた)わずんば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』19頁、東本願寺出版部)と。菩薩道において、菩薩が衆生を救うために仏陀の智慧の内容を説く。仏陀の智慧の内容を言葉にして語りかける。
 言葉ということには、自分自身が自分のなかで独り言を言うといいますか、自分自身に自分を確認するような言葉と、それを外に、他の人に表現する言葉があります。言葉というものが、一つの言葉があるのではなくて、いつも自分のなかに自分を確認していくような言葉をもつ。
 そもそも、思想家とか、もの書きというのは、ある意味で世間の付き合いに絶望した人なのでしょう。ものを書くということは、一人にならなければ書けません。話をしていたのでは書けません。だから付き合いに絶望するとか、あるいは、自分自身に絶望するとか、何かそういうことがものを考えたり書かせたりするのだと思うのです。宗教もそうだと思うのです。宗教を求めるということは、たすからないから求めるのであって、たすかっている人間は求める必要はないわけですから。罪とか苦悩とか、闇とか悪とか、何かそういう普通の世間でいえば否定概念、自分の立つ瀬がないというような苦しみがあって、宗教の言葉が身に浸みてくるわけで、そういうことなしに宗教を求めるということはありえない。
 だから、煩悩の闇とか、そういう「闇」と言われる人間の暗さに対して、それを開くものは、何か開いた智慧をもった人の言葉なのです。言葉それ自身は別に闇とか光とかというような作用をもっているわけではないのでしょうけれども、ものの考え方を変えるような作用をするわけです。「ああ、そういうふうに考えることができるのだ」と気づかせる。だから言葉は自分の内に自分の考えをもう一度問い直し、自分で正しいと思ったり、自分ではこういうものだと思っていたことが、そうではない、間違っていたのではないかと、そういうふうに自分のなかに問い直しが起こって、閉鎖されていた考えが開かれる。こういうことをもたらすときに、言葉が光の意味をもつわけです。
 仏陀は沈黙から語り出した。語った言葉が、また人間を迷わしてもいるわけですが、それを本当に切り開く力をもった言葉、それをこの第二十五願は「一切の智を演説する」というかたちで与えようと言うのでしょう。
 これは逆に言えば、この濁世を生きている人間は、本当の言葉、正しい言葉を出せない。大体、意思が邪欲ですから。まあ、われわれ人間は、人との付き合いのなかで言葉を語ることが多いのですが、自分一人になって本当の言葉を自分に語れるかというと、そういうものでもないのです。自分の妄念のなかで自分を痛めつけたり、自分をおとしめたりする言葉を自分にぶつけて苦しんでいるわけです。そういう言葉ですから、他に対したときでもよい言葉になるはずがない。また相手を傷つけたり、侮蔑したり、そういう言葉になってしまう。そういう言葉ではない、本当の智慧と智慧とが伝わっていく言葉を生み出せるような場所、この場所に触れて、互いに生きた言葉が取り交わせるようにしたいというのでしょう。
■ 自分自身に自分で語りかける言葉
 日本語表現というのは、言語学では場の表現だと、そういうふうに言われているらしいのです。場を汲(く)んで表現が出てくるのが日本語の独特な性格であると。だからヨーロッパ語などに比べると説明がとても少ない。それは、お互いに場を生きていて、場が語っているものをお互いに汲み取りながら表現が出てくるからです。
 ですから、これは悪い例ですが、「おーい、お茶」、「めし」、「風呂」、「ねる」とか、それだけで、ああ、疲れているのだなとか、そういうことが全部わかる。「おれは腹がへったから、そろそろめしにしてくれ」とか、いちいち言わなくてもよい。極端な場合、そのぐらい場があって言葉が出る。場をもってお互いに生きているという、そういう文化、これが日本文化の大きな力らしいのです。ヨーロッパやアメリカで、こうした場のもっている力を説明しようとすると、とても大変らしいのです。とにかくたくさんの言葉を使わないと説明にならない、わかってもらえない。しかし、現代という時代に、できるだけそれを他の文化圏にも発信するためには、面倒でも、いったんそれを、その論理を言語化しなければならない。言わず語らずでは伝わらないのです。
 確かに何か本当の感動は言葉を超えたものがある。しかし、いったん、それを何とか努力して言葉にしなければならない。言葉にするということが、特に非常に大事な時代になってきているのではないかと思うのです。
 私なども、しゃべるのが大体苦手なのです。こうやってしゃべっているから、好きだと思われるかもしれませんけれど、誤解されるのです。しかし、苦手などと言っていられないので、何とか表現しようとして言葉を探している。結局、言葉というのは、自分自身に自分で語りかける言葉が大事で、それが、また人にも本当に伝わっていく。私は、そういうふうに言葉を使いたいと思っているので、自分にわかるように、まず語っているのです。皆さま方にわかってもらえるように、もちろん語らなければ意味がないのですが、第一義的には私自身にわかろうとして語っているのです。
 自分のなかに芽生えてきたものを自分のなかに自覚化する言葉にして、それをまた表現していく。そういうことが、このごろ、だんだんと欠けてきている、どうも衰えてきているような気がするのです。一人ひとりが、自分のなかに言葉を確認して、それを表現することができる場を生み出していかなければならないのではないかと、そんなふうに思います。
(文責:親鸞仏教センター)
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