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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」の第61回〜63回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第61回では「四十一願と四十二願」について、第62回では「四十三願」について、第63回では「四十四願と四十五願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第60回から一部を紹介する。
(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」

人生態度の転換

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 生きることの意味転換
 第三十八願は、「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服(えぶく)を得んと欲(おも)わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然(じねん)に身にあらん。もし裁縫(さいふ)・擣染(とうぜん)・浣濯(かんだく)することあらば、正覚を取らじ」(『真宗聖典』22頁、東本願寺出版部。以下、『聖典』と略記)。衣服を欲しいと思えば与えられる。「擣染」は色を染めることで「浣濯」は洗濯です。今は、近代文明のおかげで、縫うのはミシンでやれるし、染色も機械でできます。そして、洗濯機はもう何十年も前に日本中にいきわたりましたから、このようなことは楽にできるのですが、昔はこういうことが本当に大変なことだったわけでしょう。衣食住と言いますが、衣食住が思いどおりに与えられるということは、人間が生きるうえでの深い願いなのでしょう。
 これは文字どおり、物が与えられるというふうにも読めますが、法蔵菩薩の本願の意味を考え直して見ますと、それは、人間個人の思いを超えて一切衆生の生きることの一番根に呼びかけている。生きるために悪戦苦闘している人生に、悪戦苦闘しなくてよい条件を与えようという呼びかけなのですが、それは物を与えることが目的なのではなくて、願に触れることが本当に生活になるなら、そこで生きることの意味が変わる。仏陀の願いに触れて立ち上がって見ると、生活のために人間の欲で欲しいと思っていた物が与えられるのが救いなのではなくて、願を生きるところに、願を生きるだけのそれ相応の生活物資に恵まれていることが見いだされてくる。そういう意味転換が深い意味では考えられるのではないかと思うのです。
 衣食住といった問題は、もう本当に物がない時代であれば切実な願いかもしれません。けれども、この切実な願いが満たされたら宗教的に人間存在の意味が満たされるわけではない。人間の欲は満たされるけれど、欲が満たされることが人間の救いではありません。
■ 安田先生の奥さまのお話
 私が長い間お世話になった安田理深先生の奥さまが、先生が亡くなられてからつぶやいていたお話なのですが、主人と一緒になって、主人が仏法一筋なものだから生活のためにミシンを踏み、着物を縫い、内職で稼いで、そして貯めたお金で生活するのが精一杯だったと。それだから毎日毎日が不平不満です。そのせっかく貯めたお金も、奥さまがうっかり目を離そうものなら、先生がさっさと本屋に行って好きな本を買ってきてしまう。そうするとまた怒り心頭でけんかになる。主人からは「お前は鬼だ」と言われたと。そのくらいとにかく恨み骨髄に生きていたと。その間は、風邪も引きやすい、腰は痛い、もうあっちこっち、とにかく悪いところだらけで、この世が怨みの対象のようにして生きていた。仏法を生きようと思ったけれど、こんなひどい目に遭うのかと。
 ところがあるとき、先生のところに学生さんが来て、先生が仏法の話を諄々(じゅんじゅん)としている。その隣でこっちは洗濯をしている。そのころは洗濯機のない時代ですから、洗濯といえば井戸の水をバケツに汲みかえて運んでします。実際、生活は大変だったと思うのです。ところが、その学生に対して先生が懇々と仏法の話をしている、その姿が実に楽しそうだと。なぜあの人はあのように楽しげなのかと。貧乏生活は一緒、空腹なのは同じです。しかし、片一方は恨み骨髄、けれど先生は楽しそうに仏法の話をしている。そのときに、これは自分の考え方が間違っているという声がドーンと来たというのです。自分が間違っていたと思ったのだと。それが四十歳のときのことで、それまでは風邪は引くわ、腰は痛いと、そんな状況だったのが、生活に意欲が出てきて、それから不思議なことに今まで不足だ不足だと思っていたことが何にも不足でなくなったと。そういうお話をしてくださいました。
 こういうことは滅多には起こらないと思うのです。恨み骨髄の人間が一生恨みのままに死んでいくことのほうが多いわけでしょう。でも起こりうるのです。それは人間の欲で思う存分生きていきたいと思っている間はそうはいかない。ところが、いや、このままでよいのだと、そのようにいただけたならば、すーっと楽になったと。これは私に起こったわけではなく、奥さまに起こったのです。でも奥さまは何か特別の三昧に入ったとか、覚(さと)りを開いたというのではなくて、本願を聞くということに生活を変えようとされて、それまでも念仏の生活は一応しておられたそうですが、お念仏が身についてきたのだと。そのように言っておられました。
■ 清沢先生の言葉
 清沢満之先生は「請ふ勿(なか)れ、求むる勿れ、汝何の不足かある」という文章(『臘扇記』)を書いておられます。人間はあれも足りないこれも足りないと思って生きている。でも何も求める必要はないのだと。「若し不足ありと思わば、是れ汝の不信にあらずや」。随分きついことを言われると思っていたのですが、人間はどんなよい状況でも欲求不満はあるのでしょう。子供がいなければ子供が欲しい、いればいたで女の子ばかりだと男の子が欲しい、男の子だけなら女の子が欲しい、両方いればもっと良い子が欲しいと言うわけでしょう。きりがありません。そういう欲求を自分で消そうとしても消すことはできません。しかし、それがひとりでに満足させられる世界があるのだと。これが本当に聞法して仏弟子になったときに出遇える利益なのです。
 「南無阿弥陀仏をとなうれば」と言って、親鸞聖人が「現世利益和讃」(『聖典』487頁)で語られるのは、そういう眼の転換なのであって、欲が満たされる現世利益ではない。人生態度の転換が獲得できるなら、どれだけつらくとも、どれだけ外から見て不幸な状況に見えても、本当に尊い、この人生あったればこそと言えるような人生になってくるのです。こうした意味の転換が、願に触れるということだろうと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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