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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」の第64回〜65回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第64回では「第四十六願と第四十七願」について、第65回では「第四十七願」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第62回から一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」

宿業因縁を突破する眼

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 人生のミゼラブル
 私は思うのですけれど、宿業因縁というものは、それ自身が消えることはない。ある意味、変えられないわけです。われわれが生きてきた軌跡、生きてきた結果は自分に乗っているのです。雪の上をスキーですべってシュプールがついたごとくに、自分の人生を生きてきた背景が自分に乗っている。それは絶対に逃げられない。でも、この人生でないほうがよかったという怨念と言いますか、ルサンチマン、自分自身に怨みを抱いているという、これは深層意識です。自分が意識しているときに、そう思っていなくても、起きているときは、私はこれで満足ですなどと偉そうなことを言っても、夢では違う。もっとよい状態に生まれ直したいという夢を見たりしているのです。それは怨念だと。こんな自分でないほうがよかったという、どこかにそういうものを人間は抱えている。そういうことは掘り下げていけば必ずあるわけでしょう。
 いわゆる幸せ、幸福と言うけれど、幸福という言葉は相対的に良い状況を言うのです。幸せになってほしいということは、なるべく苦悩の少ない、楽な生活をしてほしいというような願いでしょう。でも、それが人間にとって本当に満たされた命かというと、これはわからない。問題は、人生、時間が無駄に過ぎてしまうといいますか、本当に尊い時間を、罪から逃げようとして、無駄に過ごしてしまうということにあるのではないかと、私はこのごろ思うのです。空しく過ぎるという問題は、貧乏だとか病気になったとか以上に悲惨なことなのだと。いろいろやったけれど全部無駄だった、生きたことが無駄だったというような人生が一番悲惨なのだと。私どもの人生というのは、何か一生懸命生きているようだけれども、罪を作って、何か闇を深めて、何を生きたのだろうというような面が残ってくる。そうするとそれは悲惨です。皆、どこかで人生のミゼラブルを抱えているわけです。
 生きていて、そのミゼラブルがなくなることが、本当にどうしたら成り立つのか。そういうときに、親鸞聖人は『浄土論』の不虚作住持(ふこさじゅうじ)功徳、空しく過ぎることはないという功徳が浄土の功徳だと。それは阿弥陀が命を住持して、支えてくださっているのだから、それに触れればもう空しく過ぎない。それを「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし」(『真宗聖典』490頁、東本願寺出版部)と、親鸞聖人は和讃される。浄土の功徳に死んでから遇うと言っていないのです。本願力に遇えば、もう空しく過ぎないのだということは、それでミゼラブルが解消するという意味があるわけです。安田理深先生は、本願力に遇うことが不虚作住持であるとは、この世に無駄なことは一つもなかったのだという人生になるのだと。こういう言い方をしておられました。われわれは、あれをやらなければよかった、これやらなければよかったと後悔がいっぱいついてくるわけです。それはみんな空しく過ぎたということです。いや、よかったのだとどうして言えるのか。
■ 信仰の勇気
 これは禅だとか浄土教だとかということを問わず、宗教というものは、何か有限な人間の条件が良くなるという話ではなくて、人間の有限の条件は、よくよく見れば行き詰まりをもたざるをえないようなもの、あるいは、空しく過ぎてしまうというような面を逃れることができないものである。悲しいけれども、どうしようもない。にもかかわらず、それが翻(ひるがえ)るチャンスなのだと。こういうところに、宗教の言葉を聞いて、それをいただく勇気があると思うのです。
 勇気という言葉は、あまり仏教では言わないのですけれど、ティリッヒというキリスト教の思想家に、「Love, Power, and Justice」という講演があります。そのPowerというのは、Courageだと、勇気だと言うのです。信仰による勇気と。清沢満之先生はティリッヒとまったく関係がないのですが、やはり他力の信心というのは、智慧と慈悲をいただくことによって力をいただくのだということを言っておられます。清沢先生も現実にぶつかって、この世をどう生きるか、処世という問題に随分苦しまれましたから。自分の力では、左へも右へも、前にも後にも、身動き一つできない。「この私をして虚心平気にこの世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である」(『我は此の如く如来を信ず』)と。どうやって生きていってよいかわからないときに、無限他力の信念をいただくことにおいて、虚心平気に生きていくことができると。
■ 平常心これ道
 「平常心これ道」という禅の言葉があります。この言葉を鈴木大拙先生は好きで「平常心是道」と掛軸にするように書いておられます。曽我量深先生が、最晩年、お亡くなりになる直前に、現生正定聚という教えは「平常心是道」ということではないかとおっしゃっておられました。平常心というのは、禅では「喫茶喫飯」が仏道であるといって、することなすことすべてが仏道だと。生きていることが仏法なのだと。こういうことを言うわけです。ということは、有限な命のほかに無限があるのではない。有限な命のところに無限大悲をいただくのだと。清沢満之でいえば、他力は「自分の稟受(ひんじゅ)に於てこれを見る」(『臘扇記』)と。稟受とは、「稟」も「受」も受けるということです。自分が受けている、つまり宿業因縁をいただいているところに、無限他力があるのだと。こういううなずきです。
 この世で人間が宿業因縁の違いを突破するような眼をもつことは非常に難しい。常にそれに縛られてしまう。でも、南無阿弥陀仏を称えるところに、本願を聞け、無限大悲の声を聞けと。この声を聞くときに、またおまえは闇を歩いているな、と気づかされる。人生の根本的な眼の間違いを知らされるわけです。
(文責:親鸞仏教センター)
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