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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」の第66回〜68回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、「重誓偈」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、第66回から一部を紹介する。 (嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」

聞法は終わらない

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 本願のわからなさ
 本願については、本願というのがあるのだと何となくわからないと、親鸞聖人の教えにしろ浄土の教えにしろ、何を言っているのかよくわからない話になるわけです。「本願って何ですか」と質問されると困ってしまう。本願という話をするために私は何年もかかっているわけですから、そう簡単に答えられないのです。質問する側は好奇心か何かで聞くのでしょうけれど、好奇心で聞かれて答えられるような内容ではないのです。
 人間が生きて悩んで苦しんでいる。なぜ苦しんでいるのか、というようなことから始まって、それを解きほぐすにはどういのちを考えたらよいのか、どのように自分を考え直したらよいのか、そのような仏教の根本問題と関係しながら、本当にいのちを回復させようという大きな願いがこの仏道のなかで聞き当てられてきて、本願という言葉で伝えられてきた。だから本願というものがどこかにあるのではなくて、人がそれによって歩まされ、それを求めて出遇うことで喜びを感ずるような何か大きなもの、それを本願という言葉で書きとどめてきたわけです。そのような言葉のなかで、この本願の教えを聞くことによって新しいいのちの意味をいただいた方々が本願に帰する、自分は本願に命を捧げますというかたちで伝えてきたものです。だから辞書に書いてあるような言葉で、「はい、わかりました」というわけにはいかない。本願を説明して、本願とは阿弥陀如来が建てたもの、などと書いたって、何のことかさっぱりわからない。
 『無量寿経』という経典も、その本願を衆生に呼びかけるために生み出されてきた経典と言ってもよいわけで、本願が何かわからなかったら、『無量寿経』を読みなさい、と言うしかないわけです。しかし、それを読んでわかるかと言ったら、わからない。経の宗致が本願である、経の体(たい)は名号であると。なおさらわからない。名号って何ですか。『無量寿経』の体だと。『無量寿経』というのは名号で、名号を教えるためにいろいろな言葉になっている。その一番大事なところが本願なのだと。本願は名号を教えるための願いが語られている。その本願がわからなければ、名号がわからないわけです。
 こういうわけで仏教は難しい。もうちょっと易しく説いてくれと。でも、そうeasygoingにすぐわかるようなものは、だいたい偽物です。そう簡単にはわからないのです。命が短いのだから早く教えてくれと言うのだけれど、まあ、最後はしようがない、念仏しなさいと。念仏したら仏さまがたすけてくださるから、それを信じなさいと。そういうわけですが、そう簡単に信じられないから、こうやってやっかいなことを言うのです。人間はなまじ理性があるものだから、疑う煩悩をもっている。「疑い」とは根本煩悩です。人間は理性をもっているから神さまに似て賢いのだなどと、とんでもない話です。賢いようだけれど煩悩なのです。その疑いの煩悩を晴らすのは容易ではない。疑いといっても、 理性ですら見えないような疑い。つまり、いのちを疑っている。本当のいのちとは何かがわからないで生きている。そのことが実は真実の如来の教えに対する疑いになっているわけです。
 そういうわけで、本願の言葉は、解説して済むというようなわけではないのです。
■ 入門はある、卒業はない
 『無量寿経』の教えも、一切衆生がたすかるために「南無阿弥陀仏」一つでよいと簡(えら)んだ。だから単純明快に「南無阿弥陀仏」だけでよいと言うのですけれど、南無阿弥陀仏だけでよいと本当に頷くには、言葉の約束ごと、言葉で語っている内容、そういうことをある程度聞いて、ああ、そういうことだったのだとうなずいていかないと、南無阿弥陀仏がありがたいということにならないわけです。一つでよいのだけれども、その一つが一つとしてわかるためにはたくさんのことが必要になるから、これがまたやっかいなのです。一つでよい、他が要らないというのは、散々聞いた結果そうなるのです。だから、梯子(はしご)で屋根に登って、屋根に登るのが目的だったら梯子を外してよいというようなものですけれど、梯子がなかったら下に降りられない。梯子があって下に降りないと、次に梯子を登る人に登り方を教えることもできません。
 そういうわけで、教えの言葉とは、辛抱強く、そのように尋ねて、そのようにうなずいていった歴史があって、それを聞き当てられるまで聞いていくという仕事が、あとから行くものの仕事になるのです。なかなかこれは容易なことではない。長年聞いたらわかるというものでもない。何かこれは、その人その人の機縁なのです。機縁が熟すれば、言わんとすることの本質をすぐ見抜く方もある。いくら聞いても、やはり疑いの濃い人は受け入れない。出遇いも機縁です。誰に出遇うか、どういう言葉に出遇うか、それはまったくわからない。だから、どれだけ聞いたからわかるというものでもないのですけれども、納得できるまでは聞かなければならない。それを聞法というのです。
 曽我量深先生があるとき、「この仏法は入門はある、しかし卒業はないのだ」とおっしゃった。それはどういうことかと言うと、人間は愚かである、どこまでいっても迷いが深い。そこに苦悩を突き破ったものに触れよという願いがはたらき続けるから、そのはたらきに触れ続けるところに喜びがある。卒業する喜びはなくてもよいのです。聞法は終わらないでよい。ニコニコしながら、「死ぬまで聞法、死ぬまで聞法」と言ってきてくださっている方がありましたけれど、死ぬまで聞法です。そういう覚悟ができればよいわけです。早くに終わらせたいなどと思うから、もうちょっと易しく話してくれと、そういうことを言うわけです。早く終わらなくてもよい。それは一回でも喜びがあればそれでもよいと言えるけれど、苦悩の命に終わりはありませんから、また聞いて、また聞いていく。そういうことが、法蔵菩薩に触れるということなのだろうと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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