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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第71回〜75回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第71回では「寂滅」等について、第72回、73回では「少欲知足」等について、第74回では「和顔愛語」等について、第75回では「三解脱(げだつ)門」について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第69回から一部を紹介する。 (嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」

諸仏を供養するという課題

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 供養一切仏の願い
 「重誓偈」のなかに、「供養一切仏」(『真宗聖典』26頁、東本願寺出版部。以下、『聖典』と略称)という言葉があります。この供養一切仏ということは、本願のなかで言うと、第二十三願が「供養諸仏の願」と名づけられています。これは、その前の第二十二願、いわゆる「還相回向の願」を受けています。その第二十二願では、浄土に触れたならばもう一生補処(ふしょ)、必ず仏に成るということが与えられている位である。でも、他の国に行って菩薩行を修する仕事がしたいというなら、どうぞ出ていってくださいと。その菩薩行の内容が「十方の諸仏如来を供養し、恒沙(ごうじゃ)無量の衆生を開化(かいけ)して」(『聖典』19頁)と言われているわけです。
 なぜ一切仏を供養するということを法蔵菩薩が大切な願として誓うのだろうか。私は疑問をもったのです。菩薩道にとっては、「開化衆生」と「諸仏供養」はもうセットになっていて、自利利他で言うなら、開化衆生は利他です。それに対して自利の課題が諸仏供養に対応するかたちになっているのです。
 そう思っていたときに、ふと思い起こしたのが、天親菩薩の『浄土論』の解義分(げぎぶん)です。その第五回向門に対応するところにくると、「巧(ぎょう)方便回向を成就す」(『聖典』143頁)とあって、巧方便回向成就とはどういうことかというと、「礼拝等の五種の修行をして集むるところの一切の功徳善根をして、自身の住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲(おも)うがゆえに」(同上)と。自分のための楽しみは求めない、一切衆生の苦悩を抜きたいのだと。これが大乗の願いなのです。さらにその次の段で、「智恵門に依って自楽を求めず、我が心、自身に貪着(とんじゃく)することを遠離(おんり)するがゆえに」(同上)。自分の楽しみは求めない、貪着とは愛着、自分に愛着することを離れるのだと言われる。さらに、「一切衆生を憐愍(れんみん)して、心、自身を供養し恭(く)敬(ぎよう)する心を遠(おんり)離せるがゆえに」(同上)と。そのように、衆生を救いたいのだと、自分を供養するのではないのだと、何回も何回もしつこく言うのです。
 それで「ああ、そうか」と気づいたのです。「諸仏供養」ということと、この『浄土論』の「自身を供養し恭敬する」こととは、まったくの反対概念として対応しているのだと。諸仏を供養することがなぜ自利なのか。自利ということは、自分が仏に成るということ。その自利のために修行する。そのときに、自分を供養し恭敬するという心が残ったままで修行すると、これだけ修行した、偉いものだと、そういう心が天狗の鼻のように高くなる。そういう修行をしたら無意味なのです。ですから、あらゆる世界に行って、自分に先だって仏に成った存在を供養するという願いが法蔵菩薩の願いなのです。
■ 自身を供養することを求めず
 これは痛いところだなと思いました。自身を供養し恭敬する。自分を供養するというのは、つまり、自分のことを自分で「ああ、お前ご苦労さんだったな」と言って、「ご苦労だったから何かうまいものでも食べるか」と、自分にいわばお供えをする。われわれはそういうところがあります。人からほめてもらえばそれでよい面もあるけれど、誰もほめてくれないと、「これだけやったのに誰もほめてくれないのか、じゃ、しようがない、独りでご馳走でも食べておくか」と。そういう根性が抜けないのです。自身を供養し恭敬する、それを遠離するのが菩薩なのだと。
 このようなことを願っているということは、いかに人間は自我愛が強くて、自己関心が強いか、それで自分を供養したいのです。そういう心が抜けない。そのことを何とも思ってないけれど、それが人間の心の闇を作っている。人間世界の闇もそうした心が作り出していく。そこに衆生を開化する行と並んで、諸仏供養こそが代表的な菩薩行だと。それを成就させるために、法蔵願心が、わざわざ諸仏供養の願を建てる。こういう意味なのだろうかなと。
 諸仏を供養するということは、いまだ自分は凡夫であって仏に成れない、だから仏を供養することを忘れない。こういう因の位で果の位を仰ぐという課題を背負って歩むのが菩薩の仕事だと。こう考えると「諸仏供養の願」が大事だという意味が少しくうなずけるのではないかと思うのです。その果の位というのは実体的に何かあるというよりも、自分にとって尊い存在、仰ぐべき存在を見失わないことが大事な自利の課題、みずからが仏に成っていく課題であると。
 それを忘れるあり方を曇鸞大師は、「上(かみ)に諸仏の求むべきを見ず、下(しも)に衆生の度すべきを見ず」(『聖典』286頁)と。これは、菩薩の修行の第七地の段階にくると難関がある。もう自分は覚(さと)りを開いたから、これでよいのだとなってしまう。そうなると求むべき仏もない、たすけるべき衆生もないと。これを「七地沈空(しちじちんぐう)の難(なん)」と言って、空に沈むことだと。こういうことを曇鸞大師が言っているわけです。
 ですから、仏道とは終わりがない。求める心に立って、どこまででも歩ませてもらうのが仏道であって、結果に立ってしまうということをしたら、それで終わり。地獄以下に落ちてしまう。こういう厳しいところがあるわけです。
 「自身の住持の楽を求めず」ということは、言うのは簡単だけれど、人間はその魅力には勝てないのです。自分のための楽しい精神空間に触れて、それに埋没してしまう。楽しいことが強ければ強いほど、そのなかに埋没する。むしろ、突き放されて苦悩があれば歩まされるというところに、限りなく諸仏を供養するという課題が引っ張って、歩ませてくれるのだと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
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