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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
 連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第83回から85回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、第83回では「随意所欲」等について、第84回では「正定聚」等について、85回では「第十一願成就文」等について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第81回から一部を紹介する。(嘱託研究員 越部良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」

信心は「虚無の身・無極の体」

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 浄土の存在はみんな同じ
 浄土の存在は、「ことごとく同じく一類にして、形(かたち)異状なし」(『真宗聖典』39頁、東本願寺出版、以下『聖典』)。われわれがこの世を生きている身体、精神というものは、宿業因縁を受け一人ひとり違います。その違う宿業因縁を生きるがゆえに、孤独地獄に苦しんだりするわけですけれども、浄土に触れるとみんな同じだと。これは何を象徴しているのかというと、本願こそが自分の主体だという生活をするならば、本願がもし身体というものをもつならば、みんな同じだと。如来の智慧をもって命とする、そういうものがもし命だと言えるなら、それはみんな同じだと。
 こういう言葉を信頼することが浄土というものを生み出すのではないかと思うのです。われわれが生きている現象世界はみんな違います。無理矢理同じにしても必ず無理がくる。それでぶつかり合うわけです。だけど、どこかで根源的には同じものに触れなければたすからない。でも、それを求めて得られないわけです。曽我量深先生は、求めて得られないのが方便化身土だとおっしゃった。人間は違いを強調するけれど、それでは孤独だからやっぱり平等とか共同とか一緒にということを要求する。要求するけれども虚偽である。こういう矛盾があります。その矛盾を破って、本当の平等は無限大悲にあると。無限大悲に触れるところに平等の救いがあると。僧伽(サンガ)というものは、そういうことを信頼するのが僧伽だと私は思いますから、本願を命とするなら、本願において深い連帯が成り立つわけです。
■ 無限大の身体、形なき形としての信心
 それで、浄土の存在は「自然(じねん)虚無(こむ)の身(しん)、無極(むごく)の体を受けたり」(『聖典』同上)と。身というけれども虚無だと。体というけれども極まりがない。つまり、浄土というと何かこの世に生きているのと同じ形が浄土に往ってもあるようなイメージをもつけれども、そのようなものはないのだと。形といっても、虚無、ないのだと。極まりもないのだと。
 だから浄土という場所も、浄土に生まれるというのも、生まれた身というものも、みんな譬喩(ひゆ)的表現で、われわれが執(と)らわれている在り方を破った在り方に帰ることを呼びかけている。全部、象徴的表現だということが、浄土の教えの特徴ではないかと私は思うのです。それを実体化してしまうものだからわかりがたくなる。場所も実体化するし、生まれてもまだ実体があるように考えている。人間は執着が深いですから、身体がなくなっても霊魂は残るだろうとか。そう語っているのが浄土ではないかと、人間の思いをそこに入れ込むわけです。それは全部方便化土です。方便化土は求めて得られない。本当の真実の世界は光の世界であり、精神が翻(ひるがえ)された明るみの世界です。本願に触れて無量光の世界に生まれる。生まれるということも、これも実体的に何か違う世界に生まれるというイメージが強いわけですけれども、死して生まれるという宗教的な命に触れるということは、そうではない。執らわれの世界に死んで、新しい、解放された、宗教的な世界に生まれるのです。
 この愚かな身、凡夫の命として、われわれは違う命、違うものに執着しているけれども、本願はこの愚かな衆生を平等に摂め取りたいという願ですから、本願を信ずることにおいて、その願においての平等、「願海平等」(『聖典』242頁)を信ずる。これを「大信海」(『聖典』236頁、356頁)、信心の海をいただくことだと親鸞は言うわけです。本願が無限なる命を呼びかけてきているのだと聞いて、本願を主体にする。つまり信心を主体にするということは、本願を信ずる信がわれわれの主体だと確認できるということです。もしそうなったら、その主体は信心が主体で、信心が浄土に生まれる主体ですから、信心が身体をもつといっても、その形は「虚無の身・無極の体」、無限大の身体、形なき形、そのようにしか言えないのだと思うのです。
 そうした形なき世界に、我執のままで、骨がついて、肉がついたままで往けるかといったら往けないから、生まれ直しだと、死んでからしか生まれられないと教える。でも、その教えは、文字通り死んでもう一度生まれるということではなくて、何か立場が翻る。つまり、無明の在り方から本願の在り方に立ち直す。「心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て」(『聖典』400頁)と。弘誓の仏地に立った身体というのは、「虚無の身・無極の体」なのでしょう。真仏土の主体は本願で、阿弥陀は無限大だと言ってもよいし、念ずる人のところにあると言ってもよい。それは形がないのでしょう。
(文責:親鸞仏教センター)
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