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研究活動報告
公開講座 親鸞思想の解明
  連続講座「親鸞思想の解明」は、「浄土を求めさせたもの―『大無量寿経』を読む―」の第106回と第107回が東京国際フォーラム(有楽町)で行われ、106回では「智慧、大海のごとし」等について、107回では「方便の力」等について、センター所長・本多弘之が問題提起をし、有識者と一般参加者の方々との間で活発な質疑応答がなされた。ここでは、先に行われた第104回から一部を紹介する。 (親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一)
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」43

大悲を行じて生きる

親鸞仏教センター所長 本多 弘之
■ 浄土は大慈悲から生ずる
 天親菩薩の『浄土論』の中に浄土の性(しょう)功徳というものがあって、「正道大慈悲 出世善根生(ぜんごんしょう)」(『真宗聖典』135頁、東本願寺出版、以下『聖典』)と。つまり、浄土の性は大慈悲であって、浄土は大慈悲によって生み出されているのだと。その言葉を曇鸞大師が注釈して、大悲ということは、小悲や中悲ではないのだと言っています。大悲は、如来の慈悲であって、これは無条件の慈悲です。衆生の分限で起こす慈悲は条件付きの慈悲です。ですから、本願の大悲は徹底的にそうした凡夫の有限性を批判して、大悲の場所を開こうと、呼びかけてくる。これはなかなか凡夫にとっては信じがたいし、受け入れがたい。
 親鸞聖人は、「一如宝海(いちにょほうかい)よりかたちをあらわして」(『聖典』543頁)と言っておられますが、この大悲が起こるのは、如が動くという発想なのです。真如平等や、法性平等などと言うのですけれど、法の本来性、存在の本来の在り方は、平等であると。しかし、現実には我々はあらゆることが違う。自我があって、他とはどうしても一緒になれない、そのような問題を抱えて生きている。それに対して如来は、本当は平等であり、大悲が呼びかけている世界に触れなければならないのだと言うのです。そうでなければたすからないのだと、こう呼びかけてくださる。宗教的要求というのは、こうした大悲が呼びかける世界が欲しいということです。
■ 大悲を行ずるとは大悲を信ずること
 大慈悲ということは、如来が大慈悲であって、凡夫から大慈悲を起こすことはできないのです。凡夫は有限の限定された身を生きているのですから、これがそのまま無限には絶対にならない。それで、大慈悲が課題になっていても、我々は自力で大慈悲に立てるわけではない。でも、無限からは、有限を外して無限があるのではない。有限はすべて無限の中にある。だから「大悲を行ずる」(『聖典』247頁)ということが『教行信証』の「信巻」にあるのですけれど、大悲を行ずるということは、凡夫が行ずるわけではない。大悲が凡夫を通して大悲を行じようとする。
 それは、本願が行として「南無阿弥陀仏」を行ずる。つまり、「南無阿弥陀仏」を行ずる主体は本願なのです。凡夫が行ずると考えると、これは小さな行になって大行ではなくなる。我々が行ずるとすると、念仏では物足りないとか、念仏なんかたいしたことないとか、そのような発想になって、それで難行苦行してあたかも自分が無限にまで行けると発想するけれども、有限でしかない人間が無限には行けないのです。そのような問題を突き詰めて、大悲を行ずるということは、大悲が行じてくる。大悲の本願が呼びかけてくださる行を、我々はいただいて生きる。そのように発想して、現生(げんしょう)の利益として「常行(じょうぎょう)大悲の益(やく)」(『聖典』241頁)、常に大悲を行ずる利益(りやく)ということを親鸞聖人はおっしゃるのです。
 それは、大慈悲を信ずるということです。信ずるということが、自分に大悲が行じてくるということです。そして、自分がその大悲を行じて生きるということがあると、それが大悲に触れたいと思う人々に自(おの)ずから伝わっていくのです。
■ 願海平等なるがゆえに発心(ほっしん)等し
 有限な凡夫が意志をもって大悲を伝えるとか、そのようなことはできないわけです。できないものをできるように思うのは間違いなのです。凡夫であるという身において大悲をいただく。大悲の中にあると信ずる。そうすると、そのことが有限に苦しんでいる人々に、「ああ、大悲が自分のうえにはたらいてくださっているのだ」という考え方を学ぼうとする動きが起こるわけです。起こってくることにおいて大悲が行ずる。このように言うことができるのだろうと思うのです。
 つまり、大悲というものがあって、という発想ではないのです。大悲は、はたらきとなって我々にくるわけです。大悲がどこかにあるのではない。我々のこの存在構造の中に、有限であることを包んで大悲がある。大悲はそのようにして、あたかも場所、浄土の場所のごとくにして我々にはたらいてくる。こういうことが、衆生において大慈悲心を得るという意味になるのだろうと思うのです。
 我々自身の心の本質が大慈悲心になるわけではない。我々はどうしても有限性をもっている。小さな心しかない。分別する心、計算する心、汚い心しかないわけです。だけど、実はそこにはたらきかけている大きな心がある。如来の本願が立ち上がって我々を救わずにおかんと呼びかけてくださる。それを親鸞聖人は「願海平等なるがゆえに発心等し」(『聖典』242頁)とおっしゃるわけです。
(文責:親鸞仏教センター)
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