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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 「生まれる」とはそもそもどのようなことなのか、「いのち」という表現に内在する問題とは何か――などと生命倫理を根源から問うてきたのが加藤秀一氏である。加藤氏をお招きした「現代と親鸞の研究会」(2016年11月11日)では、「〈生まれる〉ことをめぐる倫理学のために―〈誰〉かであることの〈起源〉―」という講題のもと多角的な視点から問題提起をいただいた。ここにその一端を報告する。 (親鸞仏教センター研究員 中村 玲太)
〈生まれる〉ことをめぐる倫理学のために
―〈誰〉かであることの〈起源〉―


明治学院大学社会学部教授
加藤 秀一氏

① 「生命/命/いのち」と「〈誰〉」
 加藤氏は、「いのちが大切である、ということに反対するものではない」としたうえで、以下のような問題提起をされた。

 「いのちが大切である」ということですべてが終わればこんな簡単な話はない。私は、「いのちが大切である」と言ったときに、実はそうした言説と現実との間に生じている亀裂を見ていきたい。
 大切な人が死にゆくときに、本質的な問題は「命が失われる」ことなのだろうか、という問いをずっと考えています。かけがえのないその人がいなくなる、まさに〈誰〉かが失われるということが悲しいのではないか。「いのち」でも、「何者=どんな人」かでもなく、その人が〈誰〉であるか、すなわち私との関係性における特異点であるかが本質的な価値なのではないか。
 さて、「生命」とか「いのち」とか、いろいろな言い方で何かが表現されています。私たちが「生命」、「いのち」と言ったときに二つの相異なる極が含まれていると考えます。一つは、「かけがえのない命」という決まり文句がありますが、「個」の一回性を強調するような言葉です。さらに、これとは別のボキャブラリーもこの「生命」という言葉につなげて使われています。それが、「大いなる生命」などの言葉であり、「生命」が「つながり」、「連鎖」など、「全体性」を表すような語彙(い)とも絡められる。この両極性が、私たちが「生命」と呼んでいる謎そのものを表しているので、その両極性、両義性を常にたもって考えることが大事だと思うのです。
 しかし、しばしば後者、「大いなるもの」としての命が言われ、前者の価値を下げるような言説が見られる。私としては、どちらの価値が高くどちらの価値が低いとか、どちらが先でどちらが後だとか、結論をつけようとする姿勢自体が罠だと思っています。この両極に引き裂かれている、ということを丸ごと受け入れるしかない。むしろ現状では、前者を強調する。それはあまりにも後者の「大いなるもの」が強調され過ぎているからです。

② 『ブレード・ランナー』の哲学
 加藤氏は、議論を進める一つの軸として映画『ブレード・ランナー』(1982年、リドリー・スコット監督)に対して二つの問いを立てた。『ブレード・ランナー』の詳細は省くが、以下に登場する「レプリカント」とは、高度な生命工学によって製造された模造人間であり、人間に過酷な奴隷労働を強いられる存在である(外見上は人間と区別がつかない)。人間に反旗を翻したレプリカントを「廃棄」する任に当たったのが「ブレードランナー」である。  加藤氏が立てた問いは、(1)「レプリカントは、なぜ自分を生み出した人々に激しい憎しみと怒りを向けたのか?」、(2)「ロイ(レプリカント)はなぜ最終的にデッカード(ブレードランナー)を救ったのか?」である。これに対して、加藤氏は次の如く答える。

 (1)に関してはある意味で簡単で、自分につらい生を与えた張本人だからでしょう。しかし、この場合に、「非同一性問題」が生じる。タイレル博士がレプリカントを生み出すという行為がなければ、自分はそもそも存在しなかったわけです。では、はたして博士にレプリカントは感謝しなければいけないのだろうか。奴隷であっても、自分を存在させるという恩恵を与えてくれたのだから。これが二番目の問いに関わる。
 (2)に対しての私なりの答えですが、それは最後に生命というものを全面的に肯定したから、生命というものを抹消したくなかったからというものです。ただし、それは生命一般ではなく、自らの存在を丸ごと肯定した。ある意味では、この瞬間に模造人間が能力だけでなく、道徳性、倫理性においても人間を超えた。当然、奴隷として生み出された自分の生を呪った、否定したからこそ恨んだとしても、しかし、いったん生まれてしまえば、すべてが変わる。自分になるものを生み出すという計画を博士たちが立て、その思いどおりにレプリカントを作った。そのことは否定されるべきなのです。子どもを奴隷にするために作ってはいけない。しかし、それは生まれた自分の存在の否定にはまったくならない、という認識に到達した。いったん存在してしまえば、かけがえのない存在として肯定しうるものであり、それを生み出したものの意図とはまったく無関係に、肯定しうるのだという認識をつかんだのです。
 『ブレード・ランナー』は、それが人間であろうがなかろうが(それはとるに足りないことだ)、一個の世界とともにある〈私〉の存在はかけがえのない(取り替え不能である)ということ、その価値を測るモノサシは、〈私〉という存在の外部にはありえないこと、を教えてくれる稀有の肯定的な物語だったのである。

③ 人間が生きて在ることにはらまれた矛盾
 問題提起後の質疑では、「自分の存在を丸ごと肯定する」ということが、自らが置かれている境遇、社会的状況を単に受け入れることであれば、差別などの社会的問題への無関心にもつながりうるのではないか、という質問が出た。これに対して加藤氏は以下のように応答する。

 常に超越していろ、というのはおかしいと思います。自分の人生を丸ごと肯定していれば、社会的な差別がどうでもよくなる、ということになったらおかしい。そういう境地が当然であるかのように、自分の人生を肯定していればそれ以外の差別などはどうでもよい、と考える人が実際にいるわけであり、それは間違いだと言いたいからこそ『ブレード・ランナー』を出しました。それは、自らの存在を肯定した他方で、自分を作ったタイレル博士に憎しみをぶつけた(=社会的差別状況への抵抗)、という両義性を指摘したつもりです。この両義性は、絶対に尊重しなければいけない。これは生命の問題とはまた別種の両義性であり、矛盾でもある。人間が生きて在ることにはらまれた矛盾、それが人間を成り立たせるような絶対的な条件としての矛盾です。そうした矛盾を保持すべきではないかと思っています。
(文責:親鸞仏教センター)

加藤氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第36号(2017年12月1日号)に掲載予定です。

加藤 秀一(かとう しゅういち)氏
明治学院大学社会学部教授
 1963年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院社会学研究科Aコース単位取得退学。現在、明治学院大学社会学部教授。専攻は社会学、性現象論。
 著書に、『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(剄草書房、1998年)、『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか――性道徳と優生思想の百年間』(筑摩書房、2004年)、『〈個〉からはじめる生命論』(日本放送出版協会、2007年)、『ジェンダー入門――知らないと恥ずかしい』(朝日新聞社、2006年)など。編著に、『自由への問い8 生――生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)など。
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