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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 森岡正博氏は、あくまで自分の立場を「哲学」におきながら、自己のうちにある「宗教性」を肯定し、真摯(し)に向き合っている。哲学の立場に身を置きながらも、「宗教性」と言い表さざるを得ないものとは何か。現代においてこうした「宗教性」を既存の宗教の言葉に依らずに考え、表現していこうとするのが森岡氏の「哲学」でもある。

 森岡氏をお招きした「現代と親鸞の研究会」(2016年6月13日)では、「宗教性を哲学者はどう考えるか」という講題のもと、三つの視点から問題提起をいただいた。ここにその一端を報告する。 (親鸞仏教センター研究員 中村 玲太)
宗教性を哲学者はどう考えるか

哲学者、早稲田大学人間科学部教授
森岡 正博氏

■ 浄土真宗への関心と違和感
 はじめに浄土真宗と戒律について素朴にお聞きしたいと思います。特に考えたいのが、「お酒を飲む」ということ。目新しいテーマではないとは思いますが、もともと仏教では「五戒」として、飲酒を戒めています。これをどう考えるのか。

 このときに、例えばこうした議論を予想します。人間とは弱い者であり、飲まないほうがよいとわかっているけれども、やめられない。こうしたわが身が煩悩具足の凡夫であると自覚する。酒を飲むことを否定するのではなく、「飲んでしまう」という自覚からスタートする。ここに他力の救いが開かれるのであり、他力に依る救済と倫理・戒律とは次元が違う。このような考え方もあるかと思います。しかし、ここに違和感を覚えると同時に、これが浄土真宗的な教えの根本に繫(つな)がっているとも考えます。

 少し話は変わりますが、真宗大谷派の死刑廃止の運動には非常に共感を覚えます。しかし、ここで問いたいのは、死刑廃止を訴える根拠はどこにあるのでしょうか。その根拠は、現代社会に生きている人間としての倫理から出てきているのであって、真宗の「宗教性」、親鸞の教えから出てきているわけではないように見えます。

 これに対して、「真宗は仏教です」という回答が考えられます。仏陀は殺生を戒める(=五戒中の「不殺生戒」)のであり、これにのっとるのだと。しかし、だとしたらなぜ同じ五戒中の「不飲酒戒」は問われないのでしょうか。救済と倫理の次元についてこれまでも議論されてきたことだとは思いますが、親鸞の教えの根本的な問題に迫るために問いかけておきたいと思います。

■ 命の課題とペルソナ=人格
 宗教が命をどう考えるかは大きな問題ですが、私は「脳死」という問題にぶつかりました。この「脳死」ということを世界中の多くの人が抱いている「心身二元論」の観点から考えますと、人というのは肉体と同時に精神の次元を有している。この精神は脳がサポートしている。そこで脳が働かなくなる=脳がサポートしていた精神が失われる、ということであり、これを人の死とみなしてもよいだろう、というのが「脳死」の議論です。

 しかし、脳死と判定された方のご家族には、心身二元論では説明できないリアリティを感じている方がいらっしゃる。多くの場面において、脳死になった家族に声をかける人がいる。その人に精神、意識はない。でも声をかける。「対話」をしている、とも言われます。

 そのときの対話とは何か。私はここに第三の次元が開けていると考えます。それを「ペルソナ」(=古代ギリシャ・ローマ世界では「仮面」の意)と呼びたい。ペルソナという概念の大きな特徴は、奥ではない表面性です。近代的「人格」が想定するように奥に隠れている内面を本質とするのではなく、ペルソナという表面性に本質を見るのです。ペルソナというものが、脳死になった体のどこかに立ち上がってきている。それと私が対話しているのです。対話するのは、意識でもなく、肉体でもない。第三の次元です。

 私が思わず声をかけてしまうときに、声をかける力をペルソナのほうから私に引き出している。主従関係で言うと、ペルソナが主、私が従のときに、声をかけてしまう。これを対話と呼んでもよいのではないでしょうか。

 しかし、このペルソナを手で触れうる実体としてはとらえない。相手との関係性、網の目のなかで、立ち上がってくるものです。その意味で、客観的な存在ではありません。かと言って、単に主観的な存在でもない。第三の存在なのです。これをどう哲学的に言い表していくかが私の課題です。

■ 信じる/疑うことについて
 デカルト(René Descartes 1596~1650)は、好きでものを疑ったわけではありません。この世のなかに、確かなものはあるのだろうか。確かなものを見つけるためには、確かではないものを疑う。これが「方法的懐疑」です。デカルトが見つけたかったのは確かなものなのです。そして、疑っている私の存在だけは疑えない、とする。しかし、これは前半部分です。後半部分は、神の存在証明です。私が理性により疑っていける、理性の完全さが備わるのは、これを与えたものが存在したということ。つまり、全知全能の神が存在する。このように考えていくのです。

 ここからわかることは、人間はすべてを疑うことはできないということです。デカルトが明らかにしたのはむしろこうしたことだったのではないでしょうか。デカルトだけではなく、何かを考える、あるいは疑うときに、それを「下から支えている何か」を考えなくてはならないのではないか、と20世紀のヨーロッパ哲学は思索していきました。哲学はすべてを疑う。ただし、私が何かを疑えるのは、疑うという行為を支えているところの疑えないものがあるからだ、ということを哲学は炙(あぶ)り出してきているのです。

 これと連関して考えるのは、「私は私が設定しているのではない世界を生きている」ということです。これこそ哲学の言葉で語れる「宗教性」ではないかと思っています。言語と論理によって、哲学を支えているところのものをどこまで炙り出せるか。これが哲学の営みでありますが、どこかで挫折を余儀なくされるのではないかと直感しています。しかし、哲学に課された使命とは、言語と論理によっていけるところまでいくことではないかと思っています。

(文責:親鸞仏教センター)

※森岡氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第36号(2017年12月1日号)に掲載予定です。


森岡 正博(もりおか まさひろ)氏
哲学者、早稲田大学人間科学部教授
 1958年高知県生まれ。1988年東京大学大学院人文科学研究科単位取得退学。1997年大阪府立大学総合科学部助教授。1998年同教授。2005年大阪府立大学人間社会学部教授。2012年大阪府立大学現代システム科学域教授。2015年早稲田大学人間科学部教授。大阪府立大学名誉教授。博士(人間科学:大阪府立大学)。担当科目は、バイオエシックス、現代人間学など。研究領域は、現代哲学、生命の哲学、生命倫理学など。
 著書に、『生命への招待―バイオエシックスを超えて』(剄草書房、1988年)、『無痛文明論』(トランスビュー、2003年)、『生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで』(筑摩書房、1994年)、『決定版 感じない男』(筑摩書房、2013年)など多数。
 共著に、『救いとは何か』(筑摩書房、2012年)など多数。
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