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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2007年5月15日、アルカディア市ヶ谷(千代田区)において、フォトジャーナリストの藤田庄市氏をお迎えして、「現代と親鸞の研究会」を開催した。「世俗」をどう回復するかという視点から、宗教現象の事実をジャーナリズムに乗せて取り組まれている藤田氏に、「世俗の尊さ」と「宗教的理想」について語っていただいた。ここにその一部を紹介する。(嘱託研究員 本多雅人)
「世俗の尊さ」 と 「宗教的理想」

フォトジャーナリスト 藤田 庄市
■なぜ「世俗」を問題にするのか―オウム法廷より考える―
 いまの日本の中で、宗教あるいは宗教現象、超越的存在の軽さというものが、悪い方向に深まり、広がってきています。それは同時に、世俗の意味も非常に軽く考えるという状況だと思っています。
 「聖と俗」と言ったときに、無意識のうちに何となく聖のほうが上のような、尊いようなことを前提としていないか、と私は感じます。はたしてそれは正しいのか、きちんと現実を反映しているのか、まずそこからの懐疑を常にもっていなくてはならないと思います。ここで言う「俗」、つまり「世俗」とは、金儲けとか、社会的地位を高めたいとかというのではありません。毎日を大事に慎(つつ)ましやかに生きること、因果関係に超自然的な存在をもち込まないで考えることが、ここで言う世俗の意味です。
 世俗の意味をあらためて感じたのは、オウム法廷の取材で、裁判の傍聴をしているときでした。遺族の調書と証言で感じたのは、オウムの犠牲になった方々がいかに日々を懸命に生きていたか、ということでした。それはまさに世俗に生きる者の姿そのものでした。また、1989年の一家殺害事件の坂本堤弁護士の義父がおっしゃっていたのですが、「犯人たちの年齢が自分たちの子どもと同年代であることを考えると、あの集団(オウム)は許せないが、そのように育てたのは自分たちの世代だ。そういう日本を創ってしまった自分たちの間違いをはっきりさせなければならない」と。
 被害者が、犯人への恨みを超えて、深い反省をしているのです。これは、別に宗教の論理をもち出してきているわけではないのです。私は、オウムの取材をとおして、世俗に生きる方々とお会いし、感動しました。
 これに対して、次に「聖」の問題について述べてみたいと思います。麻原彰晃は、坂本弁護士を殺した早川紀代秀に、「聖なる道は、善悪を超えている。お前は善悪の観念が強いからそれを捨てなければならない。人間的な情も執着になるから捨てろ」と言っています。麻原は、「聖」が「俗」より高みにあると思い込んでいるから、そういうことを平気で言うのでしょう。麻原は、宗教レトリックを取り入れて、似たようなことをいくらでも言っています。
 それが、オウムの宗教システムのなかに用いられたときにどうなるのかと言えば、早川の場合、坂本さんを殺すときの状況について、「子どもを含めて家族をポア(殺す)することに躊躇(ちゅうちょ)はあったが、本当の慈悲はグル(尊師)にしかない。『ポアしろ』と言われれば、慈悲のないわれわれは反抗できない。やりたくないのは、自分が汚れた気持ちだからだと思ってしまう」と答えているのです。
 新実智光に至ってはもっと凄(すさ)まじいです。オウムがあの罪を犯した根本的な動機というのは、衆生救済なのです。新実が、教団のリンチ殺害事件のところで、「魔境に入って、徳を減らして低い世界に堕(お)ちるより、高い世界へ転生したほうが幸せになるからポアした。そうした麻原の思(おぼ)し召しが正しい選択と考えた」と、迷いや疑いもなく平然と言うわけです。ここでもポアの論理が用いられるのですが、そこをしっかり見ないとオウムの修行というのはわからないし、今後の教訓として生かせないと思います。
 もう少し宗教一般に普遍化すると、現実の生活から離れた宗教レトリックというものは、特に宗教者あるいは宗教リーダーが、信徒とか弟子に向かって言うときに、いかに空しく危険になるかということの一つの表れなのです。極端な事例をもち出しているように見えますけれど、 極端ではなくむしろ極めて典型的だろうと思うのです。言葉としては論理も強さもないけれど、暮らしている人びとの日々の尊さに比べ、オウムの連中の発言は実に浅薄だと思います。
 いずれにしても、「聖」と「俗」を考えたときに、はたして聖のほうが尊いのかどうか、根本的な疑問としてもたなくてはならないと思います。また、宗教レトリック、宗教的理想が本当に光を発するにはどのような条件が必要なのかを考えていかなければならないと思います。
■親鸞の凄み
 実は、私自身が「世俗の尊さ」に気づかされた原点は親鸞さんだったのです。16歳のときに『歎異抄入門』(現代教養文庫)を読んで、親鸞に眼を開かれたのです。この中で、私が感動したのが『無量寿経』です。「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲(おも)うて、乃至(ないし)十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」(第18願)という本願(ほんがん)の思想について、その後、さらに金子大榮や曽我量深の本を読んで、娑婆の存在について考えさせられました。要するに、世の中の人びとが救われなければ自分も救われないのだという、そういう考え方があるわけです。その考え方は私には説得力があり、いつの間にか私に染み付いていました。
 また、私は親鸞さんの謳(うた)った「五十六億七千万 弥勒菩薩(みろくぼさつ)はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」という「正像末(しょうぞうまつ)和讃」も大好きです。「まことの信心を得る」「この世でさとりを開くべし」という場は娑婆でしょう。これは、世俗と言いますか、この世というものを強烈に意識しているわけです。親鸞さんには、「非僧(ひそう)非俗(ひぞく)」というところに行き着いた凄(すご)みがあると思っています。
 また、『鈴木大拙選集』(春秋社)の「妙好人(みょうこうにん)」(第6巻)を読んだことがあります。妙好人は、それこそ日々の生活の中で、信心をまさに蓮(はす)の華(はな)の如く美しく生きていくわけです。私も「妙好人」を読んだ当時は、随分安心したといいますか、教えられました。これが世俗というものに気づいていくことの、私の中にあるルーツの一つだろうと思っています。
(文責:親鸞仏教センター)
藤田 庄市(ふじた しょういち)フォトジャーナリスト
1947年、東京都に生まれる。71年、大正大学文学部哲学科卒業。宗教学専攻。通信社に勤務の後、80年、フリーランスとして活動を始める。日本各地のさまざまな山岳信仰、民俗芸能等を取材する一方、オウム真理教など現代のカルト問題、宗教全般についての幅広い取材・執筆活動を行っている。著書に『民俗仏教の旅』(青弓社)、『オウム真理教事件』(朝日新聞社)、『行とは何か』(新潮社)など多数。また『新宗教事典』(弘文堂)、『仏教行事歳時記』(第一法規)などのグラビアを担当。
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