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研究活動報告
英訳『教行信証』研究会
 英訳『教行信証』研究会は、月2回の輪読会を行い、随時、検討結果を再吟味する総括研究会、さらに外部からの招聘講師による講義を行っている。前回報告(本紙・第9号)以来、引き続き「行巻」の読解を進めている。
 今号では、「行巻」の経文結釈まで(『真宗聖典』〈以下、『聖典』と略記〉156〜161頁・鈴木大拙師英訳『教行信証』〈以下、『英訳』と略記〉15〜20頁)の読解のなかから、研究会の成果の一端を報告する。また、通常の輪読会に加え、2005年2月3日には、東京ガーデンパレス(文京区)において、「大悲の解釈学―鈴木大拙訳『教行信証』私見―」と題して、大谷大学教授の安冨信哉氏をお招きした。その詳細については、あらためて研究誌『現代と親鸞』に掲載の予定である。
<はたらき>としての願名

  ―『教行信証』「行巻」・願名の英訳―

親鸞仏教センター研究員 櫻井 智浩
■大胆な表現、確かな理解
 ―鈴木大拙師の英訳からうかがえるもの―

 『英訳』読解を通じて、大拙師の了解を、『教行信証』に学ぶ際の問題提起として受けとめていくという本研究会のスタンスは、「行巻ぎようのまき」読解についても同様である。
 大拙師が、「誓せい願がん」を Prayer〈祈り〉(<〉は、英訳『教行信証』研究会による試訳。以下、同様)、あるいは「行巻」で言えば、「大行」を The great living〈大いなる生〉と訳すことはあまりにも有名である。しかし、『英訳』を注意深く尋ねていくと、それら以外にも、大胆で、しかも考え抜かれた英語表現が、実は随所に盛り込まれていることに気づく。無論、それは単に修辞的配慮からだけではなく、大拙師の豊かな大乗仏教理解と確かな仏道の歩みが、自ずとその文面にあらわれ出たのだと感じられる。その一例を紹介しよう。
■「行巻」の願名
 ―「教巻」『大経』引文の課題に照らして―

 前回(本紙・第9号)報告したように、「教巻」の『大無量寿経』、ならびに『平等覚経』『無量寿如来会』の引文の英訳から、出世本懐における、釈尊と諸仏、仏と衆生との呼応関係を確認した。今回取りあげる「行巻」の願名(『聖典』157頁・『英訳』15頁)の英訳にも、阿弥陀仏と諸仏の関係をめぐって、大拙師ならではの理解と表現が確認される。
 「行巻」冒頭は、往相回向を、大行と大信とに開き、大行とは何かが述べられる。そして、『大経』の第十七願が「大悲の願」と押さえられた上で、次の5つの願名が並べられている。
 ここに、『聖典』の文言(願名)と英訳、その日本語試訳を対応させて掲げてみる。
(1)諸仏称しよう揚ようの願― the Prayer is known as that which is praised by all Buddhas〈あらゆる仏によって賞賛される祈り〉
(2)諸仏称名の願―[the Prayer is known] that in which all Buddhas pronounce the Name〈その祈りにおいてあらゆる仏が御み名なを発する―そういう祈り〉
(3)諸仏咨し嗟しやの願―[the Prayer is known] as that which is heartily applauded by all Buddhas〈あらゆる仏によって心から喝采されるような祈り〉
(4)往相回向の願― the Prayer of outgoing eko〈外へ向かう『回向』の祈り〉
(5)選せん択じやく称名の願― the Prayer in which the pronouncing of the Name is given preference〈その祈りにおいて御名を発することが選ばれる―そういう祈り〉
 (1)から(3)は、第十七願の願文によって名づけられた通浄土教的表現であり、一般的には、その意味はほぼ同じく、「諸仏が御名をほめたたえる願」の名が並記されたものと解されている(星野元豊『講解 教行信証 教の巻 行の巻』法蔵館、90頁)。一方、(4)、(5)は宗祖独自の願名とされる。これらの願名の英訳に、大拙師はかなり腐心されたと感じられる。
 以上のように、一見、煩瑣で日本語に返しにくい英語構文で表現されているのはなぜか。
■「称揚」「咨嗟」と「称名」
 この5つの願名を見比べると、ある事実に気づく。それは、諸仏による阿弥陀仏に対する「称しよう揚よう」「咨し嗟しや」の願と、諸仏による「称名」の願(いうまでもなく、阿弥陀仏の「名」である)の違いである。
 英訳では、(1)、(3)については、“諸仏が弥陀の本願をほめたたえる”という文脈である。つまり、「本願」は、諸仏の「ほめたたえ」の目的語である。一方、(2)、(5)は、“諸仏が阿弥陀仏の名を称えるのだが、それを弥陀の本願が成立させるのだ”という構造である。つまり、こちらでは、「本願」は「諸仏称名」の主体、つまり、諸仏にはたらきかける因である。
 また、諸仏の行に着目すると、「称揚」「咨嗟」は受動態(“praised/applauded”)で表現される一方、後の二者の「称名」は能動態(“pronounce/pronouncing”)で表現されている。そして、「選択称名」の「選択」はまた、受動態(“given preference”)であり、動作主は特定されておらず、それによって法蔵願心が諸仏、衆生に開かれる契機が暗示されていると考えられる。
 以上が、the Prayer、つまり第十七願一つのはたらきとして押さえられている。このような大拙師の本願の表現は、次のように整理できるであろうか。――まさに弥陀の本願にうながされて、諸仏が自ら弥陀の名を称え、諸仏によってその本願はほめたたえられる。そういうかたちで御名が選び取られる。それが、第十七願である――この解釈について、意見はさまざまであろうが、一つ言えることは、一見、それぞれに独立した、辞書の見出し語の羅列のようにも見える5つの願名が、大拙師の英訳においては、一つの本願のさまざまなはたらきのあらわれとして、つながりをもって表現されているということである。
■「踊躍歓喜」
 坂東性純師は、『英訳』とほぼ同時期の英語による講義録について、「本書に含まれるどの章からも、晩年の大拙の円熟した境涯が、自由自在に用いられている流麗な英文の上に感じ取られる」(『神秘主義 キリスト教と仏教』岩波書店、308頁)と述懐されている。この評価は、そのまま『英訳』にもあてはまる。「行巻」の経典引文には、くり返し「踊ゆ躍やく歓喜」の語があらわれるが、その心持ちは、まさに「自由自在」なるものであろう。弥陀の本願に触れる、諸仏国土の衆生の「踊躍歓喜」、その生き生きとした同じ精神の力を、大拙師の英訳にも感じる。
 もちろん、出版後30余年を経て、『教行信証』の定本の出版、仏教学の新たな知見の蓄積や、社会状況の変化にともなう言語表現などによって、注記、また表記の統一などの必要を感じる箇所がないわけではない。その点には留意せねばならないが、それを差し引いても、言葉にならないものを言葉にする困難な仕事を、大拙師は果たされている。
 『英訳』に触れ、師の「踊躍歓喜」が、師なき後も、今ここにはたらいている感がある。
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