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研究活動報告
聖典の試訳:『唯信鈔文意』研究会
 「えらばず」「きらわず」。二つの言葉を対にさせ、親鸞は繰り返す。その背景に私は、「よきひと」と仰いでいかれた師、法然上人の姿があったことを想う。
 「ただ、後世(ごせ)の事は、善(よ)き人にも悪(あ)しきにも、同(おな)じように、生死(しょうじ)出(い)ずべきみちをば、ただ一筋すじに仰おおせられ候いし」(「恵信尼消息」『真宗聖典』六一六頁)
 この法然が伝えてくださった”生死出ずべきみち”を親鸞もまた、ひたすらに聞き、ただ一筋に説いていかれたのだろう。
 一体人間はどうしたって、優れたものを好むものである。たとえ、劣ったものに身を添わそうとも、その裏には二元化という拭(ぬぐ)い去れない価値観が張り付いている。だから、先の言葉も嫌悪感や同情の類で読んでしまう。しかし、ここでは単に、劣るものを嫌わずというのではなく、優れたものをも、「えらばず」「きらわず」というのである。
 それはわれわれの価値観ではない、”如来の眼”からの表現なのである。(嘱託研究員 法隆誠幸)
『唯信鈔文意』試訳 10 >> PDF版はこちら
原文
 「不簡(ふけん)貧窮(びんぐ)将(しょう)富貴(ふき)」というは、「不簡(ふけん)」は、えらばず、きらわずという。
現代語訳
 「不簡貧窮将富貴」の「不簡」は、えらび分けることなく、差別しないという意味である。
 「貧窮(びんぐ)」は、まずしく、たしなきものなり。「将(しょう)」は、まさにという、もてという、い(率)てゆくという。
 「貧窮」は、貧しく、生活に苦しんでいる人のことである。「将」は、たしかに、とりもなおさずということ、また、連れてゆくということである。
 「富貴(ふき)」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土(じょうど)へいてゆくとなり。
 「富貴」は、裕福に暮らす人、身分の高い人という意味である。これらの人びとを、決してえらび分けることなく、差別することなく、浄土へみな連れてゆくというのである。
 「不簡(ふけん)下智(げち)与(よ)高才(こうさい)」というは、「下智(げち)」は、智慧(ちえ)あさく、せばく、すくなきものとなり。
 「不簡下智与高才」の「下智」は、智慧が浅く、視野が狭く、知識・経験の少ない人のことである。
 「高才(こうさい)」は、才学(さいかく)ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。
 「高才」は、才能が豊かで学識の広い人のことである。これらの人をえらび分けることなく、どのような人も差別しないというのである。
 「不簡(ふけん)多聞(たもん)持(じ)浄戒(じょうかい)」というは、「多聞(たもん)」は、聖教(しょうぎょう)をひろく、おおく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。
 「不簡多聞持浄戒」の「多聞」は、聖教を広く多く聞いて、信ずるということである。「持」は、たもつということ。習い学ぶことを忘れず、心にしっかり留めておくことである。
 「浄戒(じょうかい)」は、大小乗のもろもろの戒行(かいぎょう)、五戒(かい)八戒(かい)、十善戒(じゅうぜんかい)、小乗の具足衆戒(ぐそくしゅかい)、三千の威儀(いぎ)、六万の斎行(さいぎょう)、梵網(ぼんもう)の五十八戒(かい)、大乗一心金剛(こんごう)法戒(かい)、三聚浄戒(じゅじょうかい)、大乗の具足戒(かい)等、すべて道俗の戒品(かいほん)、これらをたもつを「持」という。
 「浄戒」は、大乗・小乗のさまざまな戒のこと。すなわち、五戒・八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家・在家を問わず全ての仏教徒がたもつべき一切の戒をさしている。これらの戒をたもつことを「持」というのである。
 かようのさまざまの戒品(かいほん)をたもてる、いみじきひとびとも、他力(たりき)真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。
 このようなさまざまな戒をたもっている立派な人びとでも、阿弥陀如来の本願の用(はた)らきによって恵まれる真実の信心を得てこそ、如来の本願が用らいている世界が我が身のうえに開かれ、そこで初めて真実に生きることができるのである。
 みずからの、おのおのの戒かい善、おのおのの自力(じりき)(1)の信、自力(じりき)の善にては、実報土(じっぽうど)にはうまれずとなり。
 自らの努力や能力でそれぞれが戒をたもつこと、つまり、わが身を善しとし、わが心を善しとすることによっては、本願が用らいている世界を生きることはできないというのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【自力】『親鸞仏教センター通信』第25号参照。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
試訳をめぐって
原文
 かようのさまざまの戒品(かいほん)をたもてる、いみじきひとびとも、他力(たりき)真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。
現代語訳
 このようなさまざまな戒をたもっている立派な人びとでも、阿弥陀如来の本願の用(はた)らきによって恵まれる真実の信心を得てこそ、如来の本願が用らいている世界が我が身のうえに開かれ、そこで初めて真実に生きることができるのである。
 「往生をとぐる」ことは如来の”果遂(かすい)の誓い”である。すなわち、「往生」とは賜るものであって、信心とともに本願の用らきに依拠するのである。
 ところで、「真実報土に往生を遂げる」ということは、教学上一つのテクニカルタームとして扱われてきた。したがって、現代語訳といえども、「浄土へ往生を遂げる」、あるいは「浄土へ往き生まれる」と定訳されてきたのである。しかし、それらの言葉がもつ実体的イメージ、それ以前に「浄土」「往生」が現代に響く言葉かどうか…。
 試訳のポイントは”主体と環境の一致”である。本願の用らく世界が開かれ、その開かれた世界を主体的に生きるようになるということを、先述したことを勘案しつつ現代的な表現で何とか意味を表そうとの試みである。
 「往生」には「真実に生きる」という試訳が施された。
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