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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 終わり良ければすべて良し、とは、誰もが知っている言葉だ。死ぬときに仏さまや菩薩さま方が迎えに来て、極楽浄土に連れていってくれる、という浄土教特有の表現もまた、この「終わり良し」を思わせる。しかし親鸞は、こうした考えをまったく歯牙にもかけない。「終わり」を気にしているようでは、「まだ」信心をえていない、終わりがどうかは大切ではないのだ、と。

 だから親鸞は、命が終わるとき、という経論釈の表現を、「命が終わろうとするとき」と読む。浄土の問題として言いかえるなら、「浄土に生まれるとき」ではなく「浄土に生まれようとするとき」だ。「生まれようと願え」との阿弥陀の声を聞くところ、信の一念の成就に、浄土への往生は「すでに」始まっている。時間を数直線上に引き伸ばして、往生するのはいつか、どこで成仏するのか、などと言っているから、この身に貫いて響いてくる超越の声が聞こえないのだ。

いつ、どこで、誰が、どうなる。これが私たちの日頃の関心事だ。ああでもない、こうでもないと言い合って、あちらへ行ったりこちらに来たり、いつまでも同じことの繰り返し。この流転の生は、待っていても終わらない。それを終わらせるものを、往生というのだ。
『尊号真像銘文』試訳 26
「善導大師の銘文」(四)
親鸞仏教センター元研究員 内記 洸
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現代語
  「此即是願往生行人(しそくぜがんおうじょうぎょうにん)」とは、つまり阿弥陀の世界に生まれたいと願う人のこと、「命欲終時(みょうよくじゅじ)」とは、命の終ろうとするとき、ということです。「願力摂得往生(がんりきしょうとくおうじょう)」とは、如来の願いのはたらきがおさめ取って、そのままその真実の世界に生まれさせるのだ、というのです。これは、今のこの生活のただなかに真実の信心をえた人のことです。いよいよ死ぬというときになって初めて信心が定まり、阿弥陀におさめ取ってもらえる、というのではありません。阿弥陀の願いは、暗闇を照らす光のように、私たちの生の一瞬一瞬を明らかにしてやまず、また信心という、決して壊れることのない真実の心をうることで、必ず仏になるのだと「今のこの身に」証される。そもそも、死ぬときの話ではないのです。私たちを護り、決して見捨てまいとする阿弥陀の願いは、今のこの現実のただ中に常にはたらいているのであって、だからこそ「摂得往生」と言われるのです。ここで阿弥陀の願いのはたらきを「摂生増上縁(せつしょうぞうじょうえん)」と呼ぶのは、このためです。
 念仏の生活をしながら、阿弥陀の心が今のこの身に響いておらず、なお自分自身をあてにして生きている人――そんな人であっても、日々の念仏を通して、死ぬ直前になって仏法を勧めてくれる存在にようやく出遇(あ)い、そこで初めて阿弥陀の誓いを信じることができる、ということもあるでしょう。最後の最後に阿弥陀の願いにおさめ取られ、その世界に生まれる人もないわけではありません。けれど、死ぬときに仏さまにお迎えに来てもらおうと期待するというのでは、まだ信心をえたとは言えません。阿弥陀の誓いを受け取れていないから、死ぬときのことばかりが気になって、不安であれこれと思い悩むわけでしょう。

原 文
 「此即是願往生行人」というはこれすなわち、往生をねがう人という。「命欲終時」というは、いのちおわらんとせんときという。「願力摂得往生」というは、大願業力摂取(だいがんごうりきせっしゅ)して往生をえしむといえるこころなり。すでに尋常(じんじょう)のとき、信楽(しんぎょう)をえたる人というなり。臨終のとき、はじめて信楽決(けつじょう)定して摂取にあずかるものにはあらず。ひごろかの心光に摂護(しょうご)せられまいらせたるゆえに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆえに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまわざれば、摂得往生ともうすなり。このゆえに「摂生増上縁」となづくるなり。また、まことに尋常のときより信なからん人は、ひごろの称念の功によりて最後臨終のとき、はじめて善知識のすすめにおうて、信心をえんとき、願力摂して往生をうるものもあるべしとなり。臨終の来迎(らいこう)をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終をこころにかけてなげくなり。(『真宗聖典』522頁)
■参考(頁はすべて『真宗聖典』)

いのちおわらんとせんとき
・もしよく上(かみ)のごとく念念相続して、畢命(ひつみょう)を期(ご)とする者は、十即十生(じっしょう)、百即百生なり。何をもってのゆえに。外(げ)の雑縁(ぞうえん)なし、正念を得たるがゆえに、仏の本願と相応を得るがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順(ずい じゆん)するがゆえなり、と。
  ……また『無量寿経』に云うがごとし、「もし我(われ)成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声(しもじっしょう)に至るまで、もし生まれずは正覚(しょうがく)を取らじ」と。かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当(まさ)に知るべし、本誓重願虚(ほんぜいじゅうがんむな)しからず、衆生称念すれば必ず往生を得(う)、と。また『弥陀経』に云うがごとし、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち名号を執持(しゅうじ)すべし。もしは一日、もしは二日、乃至(ないし)七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終わらんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖聚(しょうじゅ)と、現じてその前にましまさん。この人終わらん時、心倒(てんどう)せず、すなわちかの国に往生を得ん。 (174~176頁「行巻」『往生礼讃』)

・「恒願一切臨終時(ごうがんいっさいりんじゅじ) 勝縁勝境悉現前(しょうえんしょうきょうしつげんぜん)」(往生礼讃)というは、「恒」は、つねにという、「願」は、ねがうというなり。いま、つねにというは、たえぬこころなり。おりにしたごうて、ときどきもねがえというなり。いま、つねにというは、常(じょう)の義にはあらず。常というは、つねなること、ひまなかれというこころなり。ときとして、たえず、ところとして、へだてず、きらわぬを、常というなり。「一切臨終時」というは、極楽をねがうよろずの衆生、いのちおわらんときまで、ということばなり。「勝縁勝境」というは、仏をもみたてまつり、ひかりをもみ、異香(いきょう)をもかぎ、善知識のすすめにもあわんとおもえ、となり。「悉現前」というは、さまざまのめでたきことども、めのまえにあらわれたまえと、ねがえとなり。 (534頁『一念多念文意』)


尋常のとき、信楽をえたる人/臨終のときにはあらず
・如来より御(おん)ちかいをたまわりぬるには、尋常(じんじょう)の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいにさだまるとみえたり。 (512~513頁「大経銘文」)


尋常のときよりつねに摂護してすてたまわざれば
・今、所修(しょしゅ)の念仏三昧(さんまい)に約するに、いまし仏力(ぶつりき)を憑(たの)む。帝王に近づけば、あえて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪(ざいじゃ)力・大降魔(ごうま)力・天眼遠見(てんげんおんけん)力・天耳遥聞(てんにようもん)力・他心徹鑑(てつかん)力・光明遍照(へんじょう)摂取衆生力ましますに由(よ)ってなり。かくのごとき等(ら)の不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍(しょうげ)なからしむることあたわざらんや。もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。 (185頁「行巻」『観経義疏』)

・摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇(あん)を破すといえども、貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常に真実信心の天に覆(おお)えり。たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし。 (204~205頁「正信偈」)

・金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける (496頁「善導讃」)

・「仏心光」ともうすは、無碍光仏の御(おん)こころと、もうすなり。「常照是人(じょうしょうぜにん)」というは、「常」は、つねなること、ひまなく、たえずというなり。「照」は、てらすという。ときをきらわず、ところをへだてず、ひまなく、真実信心のひとをばつねにてらし、まもりたまうなり。かの仏心に、つねにひまなくまもりたまえば、弥陀仏をば不断光仏ともうすなり。「是人」というは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人ともうす。虚仮(こけ)疑惑のものをば非人という。非人というは、ひとにあらずときらい、わるきものというなり。是人は、よきひとともうす。「摂護不捨(ふしゃ)」ともうすは、「摂」は、おさめとるという、「護」は、ところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらわず、信心ある人をば、ひまなくまもりたまうとなり。まもるというは、異学異見のともがらにやぶられず、別解別行のものにさえられず、天魔波(は)旬(じゆん)におかされず、悪鬼悪神なやますことなしとなり。「不捨」というは、信心のひとを、智慧光仏の御こころにおさめまもりて、心光のうちに、ときとしてすてたまわずと、しらしめんともうす御(み)のりなり。 (537~538頁『一念多念文意』) 


まことに尋常のときより信なからん人
・「言護(ごんご)念増上縁者」というは、まことの心をえたる人をこのよにてつねにまもりたまうともうすことばなり。「但有(たんう)専念 阿弥陀仏衆生」というは、ひとすじにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつるともうすなり。「彼仏心光 常照是人」というは、彼(ひ)はかのという。仏心光は無碍(むげ)光仏の御こころともうすなり。常照は、つねにてらすともうす。つねにというは、ときをきらわず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまうとなり。てらすというは、かの仏心のおさめとりたまうとなり。仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころにおさめたまうとしるべし。  (523頁「善導銘文」)

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