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研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
■ 問題提起
 『尊号真像銘文』の「末巻」は、日本における浄土教の夜明けを担った源信和尚の銘文からはじまる。親鸞は、「末巻」を貫くテーマとして、「闇」と「光」という譬喩で表現された真実信心の内実を解き明かす。その親鸞のいう信心が、現代に向かって何を訴えかけているのかに迫りたい。

 現代の「闇」は、たとえば「わかる」というところにあるのではないか。「自分はわかるものでなければならない」ということを前提に、自分のわかっていることを正義のようにして責め裁き、自分のわからないものは、信じられないし、無価値なものであるとさえ決めつける、不寛容な「眼差し」のことである。しかも日ごろは「それでよし」と思っている。にもかかわらず、そこには、「通じ合えない」という苦しみ、いたみが残る。

「自分のわかっていることよりも、わからないことの方が大事です」と教えていただいたことがある。わからなさを抱く我が身をも包んで、信じていてくださるような暖かさを実感する中で、親鸞の御こころをたずねたい。 (親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣)
聖典の試訳(現代語化)
『尊号真像銘文』末巻①「源信和尚の銘文」

原文
 尊号真像銘文末

首楞厳院源信和尚の銘文
「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集)文
「我亦在彼摂取之中」というは、われまたかの摂取のなかにありとのたまえるなり。「煩悩障眼」というは、われら煩悩にまなこさえらるとなり。「雖不能見」というは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたわずといえどもというなり。
「大悲無倦」というは、大慈大悲の御めぐみものうきことましまさずともうすなり。「常照我身」というは、常はつねにという。照はてらしたまうという。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまうとなり。つねにてらすというは、つねにまもりたまうとなり。我身は、わがみを大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまうとおもえとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらわしたまうなり。
「念仏衆生 摂取不捨」のこころを釈したまえるなりとしるべしとなり。

現代語化
尊号真像銘文 末巻

首楞厳院源信和尚の銘文
「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(『往生要集』)文
「我亦在彼摂取之中」とは、源信和尚が、「煩悩の身の私もまた、阿弥陀仏という、誰一人排除しない「絶対受容」のはたらきの中にいる」とおっしゃっているのである。「煩悩障眼」とは、私たちは煩悩の闇に心の眼が覆われているということである。「雖不能見」とは、煩悩にさえぎられるような心の眼では、悲しいかな、どうしても阿弥陀仏を拝見することができない。にもかかわらず、ということである。
「大悲無倦」とは、阿弥陀仏の大いなる慈悲のはたらきは、私たちを決して見捨てることはないと、申し上げているのである。「常照我身」とは、「常」は我が身が、いつどのような状況にあろうとも、常に変わることなく、ということである。「照」は照らし出してくださるということである。阿弥陀仏という光明のはたらきは、煩悩にさまたげられることなく、全てのものに至り届く。そういうはたらきに目覚めた信心の人を、常に照らし出してくださるというのである。また、常に照らすとは、常に変わることなく護ってくださるということである。阿弥陀仏という光明は、私たち誰も皆を、煩悩の身であると見通され、そういう罪深く悪重い存在である私たちにこそ、大いなる悲しみを注がれ、根源的願いをかけていてくださる。そのように気づかされて、信じる心を、いつも守護していてくださるというのである。
「我身」とは、煩悩の身であるこの私自身を、阿弥陀仏の大いなる慈悲は、飽きることなく、決して見捨てることなく、いつどんな時でも護っていてくださると、心に刻みなさいということである。つまりは、阿弥陀仏の摂取不捨という大慈悲の御こころをあらわされているのである。これは、「念仏衆生 摂取不捨」(『仏説観無量寿経』の文)の真意を、源信和尚があきらかにしてくださっていると、知りなさいということである。

《語 註》

首楞厳院:比叡山延暦寺横川の中堂の異称。源信が住した。

源信:(九四二~一〇一七) 四十四歳の時『往生要集』を著し、末法濁世の凡夫のために、煩悩によって穢された世界(穢土)を厭い離れ、阿弥陀仏の極楽世界(浄土)を欣求すべきことを勧めた。

往生要集:三巻。源信の著。日本における最初の本格的な浄土教の典籍。広く経典などから極楽往生に関する重要な文を集め、念仏が浄土往生の要であることを明らかにした書。

煩悩:親鸞は、「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」と定義している。代表的なものに、貪欲(=むさぼり)・瞋恚(=いかり)・愚痴(=おろかさ)があり、三毒の煩悩ともいう。

阿弥陀仏: 阿弥陀とは、サンスクリット語のAmitābhaアミターバ( 光明無量)、Amitāyusアミターユス(寿命無量)の音写であり、二つの意味がある。阿弥陀仏という仏の名としても、「無量光」という光をあらわす名と、「無量寿」といういのちをあらわす名との両面があるが、阿弥陀という略称にて、両方の意を包んでいる。すなわち、「苦悩する一切衆生を救い遂げずにはおかない」と誓う、大慈大悲の本願のはたらきが名となってあらわれているのである。

光明:仏・菩薩の身心より発する光。ここでは我々衆生の無明の闇を破り、本来の願いを満たす阿弥陀仏の智慧のはたらきを象徴している。

 
■現代語化をめぐって

 「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」。親鸞は、ここに源信の本心があると見きわめたのではないか。親鸞は、「信巻」(『教行信証』)に引いている、この源信の言葉を『尊号真像銘文』「末巻」のはじめに取りあげて、機法二種深信という真実信心の構造を明示しようとしているように思われる。その「眼を闇に閉ざされるような身が光に照らされる」という矛盾的構造を表現することが現代語化のポイントである。

 そのことを端的にあらわすのが「雖(いえども)」という一語である。そこに、真実なるものを求めて出遇えない、かえって背き続けるより他はない、人間としての深い悲しみがあらわれているのを感じる。それに応じて、強い逆接の意を表現する「にもかかわらず」と、言葉を当てた。

 「不能見」のところには、「こちらの眼では、どうしても見ることができない」という「不可能性」、「断絶」を表すため句点を打ち、文を区切ることによって強調した。すなわち、こちらからいえば、どうしても見えない。けれども、あきらめることもできない。つまりは、苦しみに沈んで終わっていくしかないはずなのである。「にもかかわらず」、大悲は照らす。そこに、「苦悩するものを見捨てない」、大いなる慈悲が実動するのが不思議である。

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