親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内ブックレビュー
 HOME > 研究活動報告 > 聖典の試訳:『尊号真像銘文』研究会
研究活動報告
聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
 身の回りのさまざまな物事や出来事。目の前にいる相手。わかりきったはずのことだ。けれど、それがふとした瞬間に、「全然わかっていなかった」、「そもそも出会えていなかった」、と思い知らされる。見えてもおらず、聞こえてもいないなら、「ある」とは言えない。気づくことができなければ、それは「ない」のだ。
 今回の銘文には、「本願の行者にあらざる」、「雑行雑修の人」を、阿弥陀の光は照らさない、護らない、とある。一見、真理からの締め出し、排除を語っているかのようだが、事実は逆だ。これは、排除しているのは自分たちだ、と言っているのだ。〇〇ではダメだ、△△でなければならないという、私たち自身に染みついた根性。それを支えるのは、何ともちっぽけな「私」である。見えると思っている自分、わかると思いたい自分。その存在自体が、世界を際限なく選(よ)り分け、阿弥陀の「みな、ともに」に抗議する。「摂護不捨」の光を遮っているのは、「私」である。
親鸞の言葉が時代を超えて響くのは、それが開けているからだ。その開けは、一切の物事を超えると同時に、それら一切とつながっている。あらゆる事柄を通して、自己の、絶望的な狭さへと語りかけてくる。これ以上の出会いはない。
『尊号真像銘文』試訳 28
「善導大師の銘文」(六)
親鸞仏教センター元研究員 内記 洸
>> PDF版はこちら

現代語
  「総不論照摂(そうふろんしょうしょう) 余雑業行者(よぞうごうぎょうじゃ)」の、「総」はすべて、みんな、ということです。さまざまな価値観に振り回されて、あれは良い、これはダメだなどと言いながら真実を求めるならば、そのような人については誰一人として照らし摂(おさ)めないし、護らない、というのです。この、照らすことも護ることもないというのは、「もらさず、すべての人を救い取ろう」という阿弥陀のはたらきをいただけない、ということです。「自分が」という思いにとらわれて、もっと深いところから響いてくる願いに気がつかない。自らの生がまだ、自らを超えた願いによって突き動かされたものとなっていないのだと、よくよく心得ねばなりません。先ほどのように、「 摂護不捨(しょうごふしゃ)」――摂め護って、決して捨てることがない――と解釈することはとてもできないのです。
  「現生護念増上縁(げんしょうごねんぞうじょうえん)」というのは、「いずれどこかで」ではなく「今、ここで」、真実の信をえた人を護ってくださるという言葉です。「増上縁」とは、この世界で、阿弥陀のこのはたらき以上に大切な、優れた「縁」には出遇えない、というのです。

原 文
 「総不論照摂 余雑業行者」というは、はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。しかれば摂護不捨と釈したまわず。「現生護念増上縁」というは、このよにてまことの信ある人をまもりたまうともうすみことなり。増上縁はすぐれたる強縁(ごうえん)となり。 (『真宗聖典』523頁)
■参考(頁はすべて『真宗聖典』)

雑行雑修の人
・安養浄刹(あんにょうじょうせつ)にして入聖(にっしょう)証果するを「浄土門」と名づく、「易行道」と云えり。この門の中について、横(おう)出・横超、仮(け)・真、漸(ぜん)・頓(とん)、助・正・雑行、雑修・専修(せんじゅ)あるなり。「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外(いげ)の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出・漸教(ぜんぎょう) 、 定散(じょうさん)・三福(さんぷく)、三輩(さんぱい)・九品(くほん)、自力仮門なり。「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。すでに「真実行」の中に顕(あらわ)し畢(おわ)りぬ。それ雑行・雑修、その言(ことば)一つにしてその意(こころ)これ異なり。「雑」の言において、万行を摂入(しょうにゅう)す。五正行に対して、五種の雑行あり。「雑」の言は、人天・菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と曰(い)えり。本(もと)より往生の因種にあらず、回心(えしん)回向(えこう)の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と曰うなり。また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と曰う。「専心」とは、回向を専らにするがゆえに「専心」と曰えり。「雑行・雑心」とは、諸善兼行(けんぎょう)するがゆえに「雑行」と曰う、定散心雑するがゆえに「雑心」と曰うなり。また「正・助」について、専修あり雑修あり。この雑修について、専心あり雑心あり。「専修」について二種あり、一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この「行業」について専心あり雑心あり。「五専」とは、一つには専礼(らい)、二つには専読、三つには専観、四つには専名(みよう) 、五つには専讃嘆なり、これを「五つの専修」と名づく。専修その言(ことば)一つにして、その意(こころ)これ異なり。すなわちこれ「定専修」なり、また「散専修」なり。「専心」とは、五正行を専らにして二心なきがゆえに、専心と曰う。すなわちこれ定専心なり、またこれ散専心なり。「雑修」とは、助正兼行するがゆえに雑修と曰う。「雑心」とは、定散の心雑するがゆえに雑心と曰うなり。知るべし。(中略) 経家(きょうげ)に拠(よ)りて師釈を披(ひら)くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心なり。また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地(へんじ)・胎宮(たいぐう)・懈慢界(けまんがい)の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。 (341~343頁「化身土巻」)

・一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくというは、本願真実の三信(さん しん)のかくるなり。『観経』の三(さん)心(じん)をえてのちに、『大経』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土にうまれずというなり。『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回(え)して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心(じんしん)と至誠心(しじょうしん)としるべし。真実の三信心をえざれば「即不得生」というなり。「即」は、すなわちという。「不得生」というは、うまるることをえずというなり。三信かけぬるゆえに、すなわち報土にうまれずとなり。雑行雑修して定機散機の人、他力の信心かけたるゆえに、多生(たしょう)曠劫(こうごう)をへて、他力の一心をえてのちにうまるべきゆえに、すなわちうまれずというなり。 (557頁『唯信鈔文意』)


本願の行者
・それ速やかに生死(しょうじ)を離れんと欲(おも)わば、二種の勝法(しょうぼう)の中に、しばらく聖道(しょうどう)門を閣(さしお)きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定(しょうじょう)を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名(みな)を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。 (189頁「行巻」『選択集』)

・愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛(けんにんかのと)の酉(とり)の暦(れき)、雑行を棄てて本願に帰す。 (399頁「化身土巻」)


増上縁 / すぐれたる強縁
・次下(つぎしも)に説きて云わく、「東方如恒河沙(にょごうがしゃ)等の諸仏、南西北方および上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏の、おのおの本国にして、その舌相を出(い)だして、あまねく三千大千世界に覆(おお)いて、 誠実(じょうじつ)の言(ごん)を説きたまわく、「汝等(なんだち)衆生、みなこの一切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。」いかんが「護念」と名づくる、と。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至(げし)一声、乃至(ないし)十声(じっしょう) 、一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。この事(じ)を証成(しょうじょう)せるがゆえに、護念経と名づく。」次下の文に云(い)わく、「もし仏を称して往生する者は、常に六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆえに護念経と名づく。」いますでにこの増上の誓願います、憑(たの)むべし。もろもろの仏子等、何ぞ意(こころ)を励まして去(ゆ)かざらんや、と。 (一七六頁「行巻」『往生礼讃』、智昇『集諸経礼懴儀』下より)

・仏法力の不思議には 諸邪業繫(しょじゃごうけ)さわらねば 弥陀の本弘誓願(ほんぐぜいがん)を 増上縁となづけたり (495頁「善導讃」)

・「但使回心多念仏(たんしえしんたねんぶつ)」というは、「但使回心」は、ひとえに回心せしめよということばなり。「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。実報土にうまるるひとは、かならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」ともうすなり。「多」は、大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。大は、おおきなり。勝は、すぐれたり。よろずの善にまされるとなり。増上は、よろずのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願無上のゆえなり。 (552頁『唯信鈔文意』)

Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会 「『教行信証』と善導」研究会
『西方指南抄』研究会親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス