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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。「化身土巻・末巻」の引用の終わりには天台典籍が続けて引かれる。前回は、神智法師従義と大智律師元照の引用まで考察してきた。今回は、それに続く戒度以下の引用について報告する。
 魔の発現としての鬼―戒度・天台・源信の引用―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 天台典籍の連関
 「化身土巻・末巻」における引用の終わりには、天台典籍の列挙がある。特に諦観(たいかん、?-971)『天台四教儀』を注釈する従義(1042-1091)『四教儀集解』以下には、「已上」といった引用の結びを示す言葉が置かれず、横川の源信(942-1017)の引用に至って「已上」の語が置かれる。それゆえ、これらの引用について、例えば興隆(1759-1842)の『教行信証徴決』は「ことごとく連接して、後後をもって前前を釈する故なり(中略)かくのごとく連属して釈し顕わして今の横川の文に至る。その義は極成の故にまさに已上と言う」(原漢文、中略筆者『仏教大系』教行信証第九、676頁)と述べ、個別のものではなく連関し合うものと注意されてきた。
 前回の報告では、神智法師従義と大智律師元照(1048-1116)の引用までを見た。今回は続く戒度(生没年不詳)、天台智顗(538-597)、源信の引用を、その連関性に注意しながら見ていきたい。
 さて、この一連の展開を振り返ってみよう。諦観『天台四教儀』の引用で問題とされていたことは、我々がいわゆる神と認めているものは実は三悪道たる餓鬼道の存在であるということであった(本報告第四十回参照)。そして続けてこれを注釈する従義『四教儀集解』から「天神(てんじん)を「鬼」と云う」という言葉を引き、「鬼」の中に通常善趣と考えられる「天」をも含まれることを示し、元照『盂蘭盆経疏新記』では「神は謂(い)わく鬼神なり。すべて四趣(ししゅ)・天・修(しゅ)・鬼・獄(ごく)に収む」と引用して、これをさらに補助していた(前回参照)。
 以上のように、これまでの引用では「鬼神」と「餓鬼」ということが問題の焦点であったといえよう。ところが、それに続く引用では「魔」が問題となる。これはどういう連関なのか。

■ 戒度の『観経扶新論』について
 まず、元照に続く戒度律師の引用を見てみよう。

度律師の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。(『真宗聖典』397頁)

戒度の文章はこのように非常に短く、しかもこれまでの「鬼神」とここでの「魔」が具体的にどのような連関にあるのかがわかりづらい。存覚(1290-1373)の『六要鈔』(1360)では「鬼魔、別に似れども、その体ついに同じ」(原漢文『真宗聖教全書』2-437)とあるように、これまで確かめられてきた「鬼神」と、戒度が指摘する「魔」が別々のものでなく一つだという。また、その「鬼神」と「魔」との繫がりを、先に引いた善導『法事讃』での「邪を信じ、鬼に事(つか)え、神魔(しんま)を餧(あ)かしめて」(『真宗聖典』396頁)とあった「神魔」という言葉の展開とする指摘もしばしば見られる(宣明など『仏教大系』教行信証第九、671頁参照)。
 もちろん、そのとおりにはちがいない。けれども、それだけではなぜ戒度のこの文章に注目したのかがわからない。そこで、少々遠回りになるが、この戒度の文章がそもそもどういう文脈にあるのかを確かめ、親鸞がこの一文に注目した理由を考えたい。
 そもそもこの文は、戒度の『観経扶新論』という書物からの引用である。これは次のいきさつで著された(吉水岳彦『霊芝元照の研究―宋代律僧の浄土教―』6頁、法藏館、2015年参照)。発端は、元照が『観無量寿仏経義疏』を著したことにある。これは『観経』に対する新たな注釈書という意味で『観経新疏』とも呼ばれた。この元照の『観経新疏』に対し、道因(1090-1167)という人物が『観経輔正解』(1119-1125)を著して批難した(この書は散佚)。その後、さらにこの『輔正解』の批難に対して、元照の『観経新疏』、すなわち『観経』への新論を扶(たす)ける目的で戒度が著したのが『観経扶新論』(1178)である。戒度はこの書で二十四項目にわたって、道因『輔正解』の指摘を批評している。
 この意味では、戒度の引用は直前の元照の文章を補助するものと見える。しかし元照の文章は『盂蘭盆経疏新記』であり、『観無量寿仏経義疏』ではないのであって、直接的な連関はない。そこでこの戒度の引用が、元照のいかなる主張、さらにそれに対する道因のいかなる批難に対する文章であるのかを確認したい。

■ 『観経扶新論』の文脈
 問題になっている『観無量寿仏経義疏』の文は以下のものである。

浄土の諸経、並びに魔を言わず。すなわち知る、この法に魔なきこと明らけし。 (原漢文『浄土宗全書』5-524)

ここで元照は、浄土の経典には魔が説かれておらず、浄土の法門には魔の妨げがないことを論じている。それに対して道因『輔正解』は、『阿弥陀鼓音声王(くおんじょうおう)陀羅尼(だらに)経』には弥陀の浄土に阿弥陀仏の父たる月上転輪聖王や母たる殊勝妙顏などがいることが説かれつつ、さらに「その時、魔王を名づけて無勝と曰う」(原漢文『大正蔵』12-352b)と説かれていることを確認し、次のように批難を述べている。

これはこれ仏、浄土に魔ありと言う。『新疏』、返りて魔なしと言う。仏と『新疏』、何ぞ霄壌(しょうじょう)なるや。 (原漢文『浄土宗全書』5-524)

道因は、『鼓音声経』を根拠に浄土に魔がいると仏が説いているとする。そして、それに反して元照は浄土に魔はないとしているのは霄壌、すなわち天と地との違いではないかと指摘するのである。この道因の批難に対して、戒度が行う反批判の文章の中に、親鸞の引用箇所も出てくるのである。
 まず戒度が確認するのは「必ずまずその大途を観じて小節に拘るべからず」(同前)ということである。その上で、もし浄土に魔があるとすれば、それは五濁悪世と何の異なりがあるのかと疑問を提出する。その立場から、浄土には魔がないと説くのが正しく、『鼓音声経』の説は弥陀が穢を現じたものとして会通(えつう)するのである。
 そしてその証文として、伝天台『浄土十疑論』の「外無神鬼魔邪…」(『大正蔵』47-79b)といった説や、湛然(711-782)『法華文句記』が女人と悪道について「無量寿国二種俱無」(『大正蔵』34-303a)と説いていることを挙げ、次のように結論するのである。

二種と言うは、謂わく女人と悪道なり。魔はすなわち悪道の所収なり。すでに俱無と云う。あにまた魔あることを得るや。 (下線筆者、原漢文『浄土宗全書』5-525)

こうして湛然の言葉を通して、戒度は浄土に悪道はないと確認する。そして、魔とはその悪道におさまるものであるから、浄土に魔はないことは当然だとして、元照に対する批難に応答していくのである。その中の一文(上記下線部)を親鸞は引用しているのである。

■ 元照・戒度の言う「魔」
  このように戒度の文脈を見てきたのであるが、しかしながら元照の鬼神の説との接点は見出すことはできていない。そこでさらに考えるべきは、戒度が言及する、元照『観経義疏』で言われる「魔」とは何を意味しているかである。そして問題の発端たる「浄土の諸経、並びに魔を言わず」という元照の議論を、親鸞が「行巻」に引用していることに注意しなければならない。
 「行巻」に引用された元照の文章において、浄土の法門に魔がないということについては、慶文(けいぶん)の文章によって論拠立てられている。その元照が引く慶文の論では、魔の発動について次の様に説かれている。

『首楞厳(しゅりょうごん)』に依(よ)って三昧(さんまい)を修習(しゅじゅう)することあり、あるいは陰魔(おんま)を発動(ほつどう)す。
『摩訶衍(まかえん)論』(大乗起信論)に依って三昧を修習することあり、あるいは外魔(げま)〈天魔を謂(い)うなり〉を発動す。
『止観(しかん)論』に依って三昧を修習することあり、あるいは時魅(じみ)を発動す。 (改行筆者『真宗聖典』184-185頁)

ここに言うように、『首楞厳経』による「陰魔」、『起信論』による「外魔」、『摩訶止観』よる「時魅」こそ、元照が想定した「魔」であり、かつ戒度が言う「魔」と考えられよう。そしてさらにこの『首楞厳経』と『起信論』は、親鸞がこの「化身土巻・末巻」にすでに引用していた。
  『首楞厳経』の引用では以下の文が見える(本報告第十二回参照)。

末法の中に、この魔民多からん、この鬼神多からん、この妖邪(ようじゃ)多からん。 (『真宗聖典』386頁)

また『起信論』の引用では以下の文が見える(本報告第十七回参照)。

あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のために誑惑(おうわく)せらる。 (『真宗聖典』387頁)

こうして衆生を惑わす存在として『首楞厳経』から「魔民・鬼神・妖邪」、『起信論』から「諸魔・外道・鬼神」が確かめられている。これが「行巻」元照引用での「陰魔」「外魔」とまったく無関係とは考え難く、親鸞はむしろ元照の言葉を念頭にこれらの引用を行ったと考えられる。
 そうすると、以上の親鸞の確かめによれば元照の言う「魔」とは「諸魔・外道・鬼神」を内包したものだということになる。そしてそれは当然『盂蘭盆経疏新記』での「神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む」と連関し、ここに言われる「鬼神」と「魔」とが同質にあることを意味する。そのうえで、その「魔」は同時に戒度が「魔はすなわち悪道の所収なり」という「魔」と同一であるのだから、そこにも「諸魔・外道・鬼神」は内包されるのである。元照の言う四趣に収まる「鬼神」と、戒度の言う悪道の所収たる「魔」は、存覚が指摘したように「その体ついに同じ」なのである。直接的連関はない元照『盂蘭盆経疏新記』と戒度『観経扶新論』の引用であるが、実は同じことを語っていたといえるのである。
 こうして「天神」と呼ばれる存在は、「鬼」であり「魔」であって、悪趣に収まるものだと確かめられた。そこであらためて親鸞が問題にするのが「魔」であり、これを根本的に示すものとして再び天台宗の祖たる智顗の言葉が引かれることになる。

■ 魔の発相としての鬼

『止観』の魔事境(まじきょう)に云わく、二つには、魔の発相(ほっそう)を明かすには、管属(かんぞく)に通じてみな称して魔とす。細(くわ)しく枝異(しい)を尋(たず)ぬれば三種を出でず。一つには慢悵鬼(まんちょうき)、二つには時媚鬼(じみき)、三つには魔羅鬼(まらき)なり。三種の発相、おのおの不同なり、と。 (『真宗聖典』397-398頁)

天台大師智顗の『法界次第』(源信『要法文』からの孫引き)に始まる天台典籍の列挙は、親鸞とほぼ同時代の戒度の引用まで至ったところで、再び天台大師の引用へ戻る。『法界次第』の引用は、仏道の初門たる帰依仏の内容を『涅槃経』から「仏に帰依せん者、終(つい)に更(かえ)ってその余のもろもろの外天神に帰依せざれ」(『真宗聖典』397頁)と確かめることに始まるが、これまでの流れはその「天神」を「鬼」であり「魔」として確認するものであったといえよう。そこから、逆に「魔」の発現の在り方を尋ねることをもって、天台大師が「外天神に帰依せざれ」と述べた理由を明かすものがこの引用だといえる。
  天台智顗『摩訶止観』(594)において、修行の妨げとなる十の境界の一つとして示されるのが魔事境である。そこから魔の発現する様相を説く一段を親鸞は引いている。魔には主管と眷属とあるが、それらを通じて魔という。より詳しく尋ねても三種に過ぎない。それは慢悵鬼、時媚鬼、魔羅鬼の三つである。これらが現れるすがたは一様ではない。以上で引用は終わるが、原文では続けてその様相が詳しく説かれていく(『大正蔵』46-115a~)。ただし親鸞は引用せず、重要ではなかったのだろう。またこの三種の名称のうち、「慢悵鬼」は原文では「𢟋惕鬼」であり、このちがいが何に由来するのかも不明である。
 ここで問題なのは、「魔」の発相として「鬼」の存在があるという点であろう。特に二つ目の時媚鬼は、上記「行巻」の元照『観経義疏』での「時魅」と同義と考えられるのであり、一連の展開における鬼神とは「魔」の発動だとするのがこの引用の眼目であろう。
 そしてこの「魔」が「鬼神」として発動するとき、いかに働くのかを確かめるのが最後の源信の引用である。

源信、『止観』に依って云わく、魔は煩悩に依って菩提(ぼだい)を妨(さまた)ぐるなり。鬼は病悪を起こす、命根(みょうこん)を奪う。已上 (『真宗聖典』398頁)

ここで「『止観』に依って云わく」とあるこの文は、古来『往生要集』「対治魔事」の「種種の魔事よく正道を障う。或いは病患を発さしむ」(原漢文『真宗聖教全書』1-845)の取意であろうと言われているが、『往生要集』に直接親鸞の引用した文はなく、出典は不明である。また親鸞自筆本を見ると、『摩訶止観』と源信の引用との間はかなり大幅な紙面の切断がある(大谷大学編『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』772-773頁、真宗大谷派、2012年)。ここに本来何らかの文があったと推測されるが、それを知る手掛かりはない。ともかく、源信によって『止観』に言う「魔」とは菩提をさまたげ、「鬼」とは身体を蝕むものと確かめられる。
 人々が祭祀している「天神」、それは「鬼」であり、その本質は「魔」であった。そしてそれが発現する際には、上記のような妨害の働きをするということを天台大師までさかのぼって根本から確かめなおし、それによって天神に帰依すべきでないことを論じようとした。それが、比叡山と対峙した親鸞が、一連の天台典籍の列挙によって確かめていることなのであろう。

(2018年7月、文責:親鸞仏教センター)

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