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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。これまで「化身土巻・末巻」における諸典籍の引用を尋ね、そのことを踏まえて「後序」と呼ばれる箇所について検討を行っている。前回は、「後序」に記された古田武彦のいわゆる「承元(しょうげん)の奏状」について検討した。今回はそれに続く箇所を見ていく。
 法然の入滅―「化身土巻」の帰結としての「後序」③―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 「五年の居諸を経たりき」の位置づけ
 前々回から『教行信証』のいわゆる「後序」に入っている。前回、「慶哉」以前の前半部分の多くについて、『教行信証』執筆時に作成された文章ではなく、過去に親鸞自身が書いた記録文書を『教行信証』に引用し組み込んだ文章だとする古田武彦の指摘を紹介した。そのなかでもとくに、念仏弾圧に関わる箇所について、古田は流罪中に提出した上奏文(承元の奏状)であるとの見解を提示した。本報告でも基本的にそれに従いたい。古田は、この奏状こそ『教行信証』の「成立の原点」(『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ 親鸞思想』204頁、明石書店、2003年)とし、これに続く文書について「「承元の奏状」という公式文書が基軸とされ、他の三箇の文書は公式文書に準ずる形式で、これに結合されている」(同前)と述べる。今回は、その「承元の奏状」に続く文を見ていく。
 ただその前に、一点再検討したい箇所がある。その疑問とは、古田や平雅行が「承元の奏状」の結びとする「空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐(つみ)して五年の居諸(きょしょ)を経たりき。」(『真宗聖典』399頁)の一文について、この文は「奏状」に含まれないのではないか、ということである。
 「後序」冒頭の「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば」(『真宗聖典』398頁)から「五年の居諸を経たりき」までを一連の文と見做(な)すのは、古くは覚如(1270~1351)の『親鸞伝絵』に見え(『真宗聖典』732頁)、ある意味で伝統的理解ともいえる。古田自身は、「居諸」という言葉の典拠からこの点を確認している。それは、白楽天(772~846)の「恩光未報答 日月空居諸」という詩である。この「恩光いまだ報答せず」に典拠をもつ親鸞の表現は「これを流罪中執筆の文面とする時、もっとも適切な感懐の表現」(先掲古田585頁)だというのである。
 ただ、「五年の居諸を経たりき」を「奏状」の一部分だと見做すと、承元4年に退位した土御門天皇を「今上」と記していることとの齟齬(そご)が生じるという難点が発生する。この点については前回、平雅行の解釈を提示したが、そもそも「奏状」の一部分でなければ、この問題は生じない。三木彰円などは、「五年の居諸を経たりき」を後の文と接続させ「五年に及ぶ「遠流」と法然の「勅免」が一連して記される」(「親鸞における教学の視座(下)」『親鸞教学』第77号、2001年)と位置付けており、このような解釈も可能であろう。決定的な事柄があるわけではないが、古田・平の理解に疑問点だけは提示しておきたい。
 いずれにせよ、この「五年の居諸を経たりき」は「二文書の接続点」(先掲古田271頁)にちがいない。では続く文章を見てみよう。

■ 「法然追悼の賛文」

     皇帝〈諱(いみな)守成(もりなり)〉聖代、建暦(けんりゃく)辛(かのと)の未(ひつじ)の歳、子月(しがつ)の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛(じゅらく)して已後、空、洛陽(らくよう)の東山の西の麓(ふもと)、鳥部野(とりべの)の北の辺(ほとり)、大谷に居たまいき。同じき二年壬申(みずのえさる)寅月(いんがつ)の下旬第五日午(うま)の時、入滅したまう。奇瑞(きずい)称計(しょうげ)すべからず。『別伝』に見えたり。 (『真宗聖典』399頁)

まず意味を取ってみよう。順徳天皇の時代、建暦元年(1211)11月17日に勅免を受けて、京都に入って以降、源空上人は京都東山の西のふもと、鳥部野の北のあたりである大谷の地に住まわれた。同2年(1212)1月25日のお昼ごろ、入滅なされる。それに伴い、不思議な出来事が数知れず現れたことが、『別伝』に見えている。
 最後の『別伝』は具体的には不明だが、恐らく『西方指南抄』に収められた「法然聖人臨終行儀」(『定親全』5-131~141)などを指すのであろう。『高僧和讃』にも「本師源空のおわりには 光明紫雲のごとくなり」(『真宗聖典』499頁)と詠われている。
 さて、この文章の特徴を見よう。まず「皇帝」という記述は、その直前が4文字分を空白にして記されており、先の「承元の奏状」での「平出」や「闕字(けつじ)」とは異なる。それは公式文書の形式を、公式文書以外で行うことは却って非礼であるため、それに準ずる形式としての空白だという(先掲古田203頁)。つまり、この4字空白は「承元の奏状」とは性格が異なることを意味する。
 また、古田はこの文章がいつ書かれたものかを検討した。そこで注目したことは、「皇帝」を「今上」と記していない点である(先掲古田270頁)。ここの「皇帝」は順徳天皇(佐渡院)であり、その退位は承久3年(1221)である。そして、「今上」と記さない以上、この記述は承久3年以降のものだと古田は指摘する。そのうえで、古田は原教行信証執筆時点を元仁元年(1224)に見ているため、その4年の間(1221~1224)にこの文は執筆せられているとしつつ、ちょうど元仁元年の法然13回忌に合わせてしたためられた可能性が大だとして、「法然追悼の賛文」と呼んでいる。
 ただし、本報告では「元仁元年」を執筆時点とは考えておらず、この古田の指摘については再考の余地がある。また、ここの「建暦辛の未の歳」は、自筆の坂東本では、もともと「建暦元年辛の未の歳」であったが、親鸞自身が「元年」を塗りつぶしたことが報告されている(『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』667頁注①、大谷大学、2012年)。おそらく前段の「承元丁の卯の歳」と表記を合わせる意図と推測される。古田は、親鸞が自分自身の文章をも改変せず原文のままに引用していることを強調するが、場合によっては変更もあることを指摘しておきたい。

■ 法然の入滅に確かめられる課題
 さて、古田の言う「法然追悼の賛文」は、なぜ「承元の奏状」に続けて引用されなければならなかったのか。古田はここにこそ「教行信証著述のための、必要にして十分なる動因が含有されている」(先掲古田268頁)という。そこで注目されるのが、二つの文書の接続点である「五年の居諸を経たりき」という言葉である。すでに見たように、この言葉の典拠には「恩光いまだ報答せず…」とある。
 法然の教恩に報いることがないまま、空しく月日を過ごすままに、それが法然の入滅へと接続される。「親鸞痛哭の声を、わたしたちの耳は聞くであろう」(先掲古田274頁)とは古田の謂いであるが、その入滅せる法然の恩徳に応答しようという思いが、『教行信証』著述の内面的動因として、ここに示されていると古田は指摘するのである。
 この指摘を踏まえつつ、「化身土巻」全体を見渡したとき、やはり注目されるのは親鸞が「教誡」という言葉を思想的課題としたことである。前回指摘したことであるが、『無量寿経』においてこの「教誡」という言葉は、釈尊が世を去った後の仏弟子に託された課題であった(『真宗聖典』78~79頁)。親鸞にとって現実の仏とは、何よりも法然であった。とすれば、親鸞は、この『無量寿経』に説く釈尊の滅度と、法然の入滅を重ね合わせているのではないだろうか。つまり、『無量寿経』に説かれる「教誡」という仏道の課題を、法然の入滅を通して主体化することを、この「法然追悼の賛文」において確かめていると言えるのではないだろうか。
 では、その思想的課題を荷(にな)う主体とは何者なのか。それが次に、法然からの『選択集』付嘱と真影(しんねい)の図画(ずえ)として確かめられていくことになるものと考えられるのである。

(2018年12月、文責:親鸞仏教センター)

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