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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。これまで「化身土巻・末巻」における諸典籍の引用を尋ね、そのことを踏まえて前回から「後序」と呼ばれる箇所について検討を行っている。今回は、「後序」の承元(しょうげん)の法難の記述について報告したい。
 非僧非俗という表明―「化身土巻」の帰結としての「後序」② ―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 「後序」の一部を構成する承元の奏状
 前回から『教行信証』のいわゆる「後序」の考察に入っている。そこでまずは現在「後序」と呼びならわされている一連の親鸞の自釈について、その前半の大部分は『教行信証』執筆時に作成された文章ではなく、過去に親鸞自身が書いた記録文書を、『教行信証』に引用し組み込んだ文章だとする古田武彦の研究を紹介した。その中で「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば」から「邪正(じゃしょう)の道路を弁(わきま)うることなし」までの文章について、古田はこれを「奏状」(後述する)の「前提命題」(『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ 親鸞思想』205頁、明石書店、2003年:初出1975年)と理解している。もちろんそれが一連の文章において「前提命題」たることに異論はないが、本報告ではその箇所は『教行信証』執筆時の文章ではないかとの疑問を提示した。そのうえで、そこに記される「洛都(らくと)の儒林(じゅりん)」について「化身土巻」の一連の展開を踏まえて、その課題とするところを考察した。「洛都の儒林」とは親鸞当時の京都の儒教を中心とした学びを行う学者・為政者たちを意味すると考えられるが、その思想の中心にある「孝」という儒教的徳目こそ、親鸞が問題にした点であるというのが本報告一連の検討の帰結である。
 さて今回考えたいのが、続く「ここをもって興福寺の学徒」以下の文章である。

ここをもって興福寺(こうふくじ)の学徒、
太上天皇〈諱(いみな)尊成(たかなり)〉、
今上〈諱為仁(ためひと)〉聖暦(せいれき)承元丁(ひのと)の卯(う)の歳、仲春(ちゅうしゅん)上旬(しょうしゅん)の候に奏達(そうたつ)す。 主上(しゅしょう)臣下(しんか)、法に背き義に違し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。これに因って、真宗興隆(こうりゅう)の大祖(たいそ)源空法師、ならびに門徒数輩(すはい)、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名(しょうみょう)を賜うて、遠流(おんる)に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿(とく)」の字をもって姓(しょう)とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸(きょしょ)を経たりき。 (自筆本により一部変更『真宗聖典』398頁)

このように極めて強い口調で念仏弾圧に対する批判を親鸞は行う。古田は、この文章を『教行信証』執筆以前に書かれたものだと考えた。ではこの文章は、いつどのような目的で書かれたのか。古田はこれを、親鸞が流罪中に提出した上奏文(承元の奏状)の一部だという(先掲古田580~592頁)。親鸞が流罪中に奏状を提出したという根拠に、古田は『血脈文集』と『歎異抄』の次の文を挙げる。

愚禿者坐流罪之時、望勅免之時、改藤井姓、以愚禿之字、中納言範光卿をもて勅免をかぶらんと、経奏聞、範光の卿をはじめとして、諸卿みな愚禿の字にあらためかきて奏聞をふること、めでたくもうしたりとてありき… (『血脈文集』第五通、『真宗聖典』1088頁)

親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧にあらず俗にあらず。しかるあいだ禿の字をもって姓となし奏問を経られおわんぬ。かの御申状、今に外記庁も納まると云々
流罪以後愚禿親鸞と書かしめたまうなり (原漢文『歎異抄』、『真宗聖典』642頁)

ここに記される「申状」こそ「後序」の記述だ、と古田は言う。その証拠として、「後序」が公式文書の形式に則っていることを挙げる。具体的には「太上天皇」「今上」と記す際に改行をする「平出」、「主上」の前を一字開ける「闕字」といった記載である。また法然への「源空法師」という呼称、「予」という自称、「姓名を賜る」といった表現などは、親鸞の文章としては異例であるが、上奏文の形式に従ったものとすれば理解可能だとするのである。
 では、この奏状はいつ書かれたのか。それは「五年の居諸を経たりき」とあるように、承元の法難から5年後の承元5年に書かれた文書のはずである。ここに一点の疑問があるとしたのが平雅行である(「『教行信証』後序と奏状」『『教行信証』の思想』304~305頁、筑摩書房、2011年)。平は、土御門天皇(為仁)が「今上」と記されている点に注意した。土御門天皇が退位したのは承元4年(1210)11月25日、その後12月28日に順徳天皇が即位する。つまり承元5年に土御門天皇を「今上」と記すのは時間の齟齬(そご)があるのである。その理由について平は、親鸞が越後にいたため情報の伝達が遅れ、退位後であったにもかかわらず土御門天皇を「今上」と記したのであろうと推測している。そして、親鸞がこの文書を書いたのは承元5年のかなり早い段階だと結論づける。
 平がこの点にこだわったのは、この奏状が流罪中に書かれたのか、赦免(しゃめん)後に書かれたのかでその意味合いが大きく変わると考えたからである。親鸞らの赦免は承元5年/建暦元年11月17日であり、そのころに土御門天皇を「今上」と記すのは考えがたい。つまり、親鸞は流罪中に抗議の奏状を朝廷に提出していたのである。

■ 興福寺学徒の奏達
 ところで、親鸞は承元の法難について記述を始める際に「興福寺学徒奏達」という言葉から始める。これについて、今までおおむね貞慶起草のいわゆる『興福寺奏状』を指すと理解されてきた。この点に関しても、平の指摘を紹介しておきたい。
 まず、確認しておきたいことは、『興福寺奏状』の執筆は元久2年(1205)である。それに対して親鸞は興福寺の学徒が奏達したのは承元元年(1207)2月(仲春)の上旬だと記すのであり、『興福寺奏状』とは2年のずれがある。要するに親鸞の記述は『興福寺奏状』を指してはいない。
 そこで平は、当時の記録として、『明月記』の建永2年(承元元年)の記事を追う(『大系真宗史料 文書記録編』1-51頁、法藏館、2015年)。まず、1月24日に念仏弾圧の基本方針が固まる。その後、2月9日に専修念仏僧の逮捕・拷問が行われている。なお『法然上人行状絵図』巻33には安楽・住蓮の処刑が2月9日とあり、正式の手続きを踏むことなくこの時点で処刑された可能性は十分あると平は指摘する(『大系真宗史料 文書記録編』1解説364頁)。そして、2月10日に九条兼実が使者を後鳥羽院のもとに派遣している。その後、実際に法然らに処分が行われるのは、2月28日である。つまり、親鸞が記す2月上旬時点とは、弾圧をめぐる駆け引きが行われている時なのである。
 ここで平が注目するのが、2月10日の九条兼実の要請である。兼実が寛大な処置を要請するということは、当然同時期に、反対の立場からの要請もあったはずだとし、それこそ『教行信証』の「仲春上旬の候に奏達す」という記述であるとして、「二月上旬の興福寺の奏達は事実と考えるべきである。奏状の提出を一度だけと限定して考える必要はまったくない」(「『教行信証』後序と奏状」『『教行信証』の思想』301~302頁)とする。
 では、その興福寺の奏達には何が書かれていたのかと言えば、処罰者の特定だと平は言う。それまで興福寺は法然・安楽・幸西・住蓮・行空の処罰を求めていた(『三長記』元久三年二月条〔『大系真宗史料 文書記録編』1-45頁〕)。承元の法難の際に親鸞が流罪になったのは、新たにそのリストに親鸞が載ったからであり、そうでなければ頭角を現すのが遅かった親鸞を朝廷が処罰できるはずがなく、だからこそ親鸞はこれを特筆したのだ、というのが平の結論である。

■ 「化身土巻」の展開における「承元の奏状」
 以上がこの文書の歴史的性格であるが、それが『教行信証』においてもつ位置を古田は次のように指摘する。

「承元の奏状」こそ教行信証全体の構成にとって、決定的な発起点であり、成立の原点をなすものである、 (先掲古田204頁)

古田の指摘のように『教行信証』の原点にこの文書があるならば、親鸞はこれをどのような文脈に置いたのか、換言すればこれまでの「化身土巻」の論述の展開と如何なる関係にあるのかが問題である。
 一連の報告で繰り返し述べてきたように、「化身土巻」後半の課題を親鸞は「教誡」という言葉に託して論述を進めていた。この「教誡」は、本報告第1回で指摘したことであるが、元々『大無量寿経』のいわゆる三毒五悪段の終わりに出てくる言葉である。そこで釈尊は、仏滅後においていよいよ増長する衆生の諂偽(てんぎ)・衆悪について互いに教誡しあうべきことを弥勒に説くのであり、弥勒は仏に対してそれを守ることを誓うことになる(『真宗聖典』78~79頁)。
 その課題が「後序」へと展開することについて、『大無量寿経』三毒五悪段の、五悪の中の第二悪として語られる次の経文が注目される。

賢を嫉(そね)み善を謗(そし)りて怨枉(おんおう)に陥(おと)し入る。主上、明らかならずして臣下を任用す。臣下、自在にして機偽(きぎ)端(はし)多し。(中略)転(うた)た共に事に従いて更(たが)いに相(あい)利害す。忿り怨結(おんけつ)と成り、あるに富みて慳惜(けんじゃく)す。 (中略筆者『真宗聖典』68~69頁)

釈尊はこのように衆生の悪の一端を説き、弥勒に教誡しあうべきことを語るのであるが、この言葉こそ「後序」の「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」という文の典拠だと言えよう。
 「後序」の第一段落の箇所が、承元5年親鸞39歳のときに書かれていたものだとするならば、親鸞は専修念仏弾圧の動きを、釈尊が『大経』で説く衆生の悪として流罪の中で受け止めていったということになる。そして、『大経』にはその衆生の悪に対する仏弟子の向き合い方として「教誡」という態度が要請されているのであり、そのことを真摯に受け止め応答したのが「化身土巻」後半の論述だったと言えよう。とくに「怨」という言葉は、『弁正論』引用において「法は平等を貴(たっと)ぶ、なんじ怨親(えんしん)を簡(きら)わんや。あに惑(わく)にあらずや」(自筆本により一部変更『真宗聖典』392頁)と、法に背く在り方として追及されていた点であり、それは念仏弾圧の底にあるものを思想的にとらえようとしたものだったのではないだろうか。そしてその『弁正論』で「なんじ」と呼びかけられているのは、儒教的価値観をこととする人たちである。
 古田は「猥」の語が訴陳状中の慣用語として訴求の核心を指すものとの確認から、「承元の奏状」におけるそれを「猥りがわしく死罪に坐す」に見る(先掲古田213頁)。事件は諸寺の訴えに始まるが、処罰を断行したのは「主上」である後鳥羽上皇であり、それを追認したのは「臣下」たる「洛都の儒林」である。その「洛都の儒林」の思想性に親鸞は問題の根本を見出(いだ)し、これと決別しようとした。その宣言が「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす」であろう。「非俗」の「俗」とは、世俗一般ではなく、『教行信証』の文脈では「洛都の儒林」を指す(加来雄之「已に僧に非ず俗に非ず」『親鸞教学』第90号、大谷大学真宗学会、2008年)。これが『教行信証』を執筆する親鸞の立場として表明されているのである。
 ところで、『大無量寿経』で「教誡」という言葉が課題となるのは、仏の入滅の後においてである。恐らく親鸞が「教誡」を語るときも、このことが強く意識されていたのではないだろうか。それが、次の段の記述へと繫がるのではないかと考えられるが、その点は次回考察したい。

(2018年11月、文責:親鸞仏教センター)

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