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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。「化身土巻・末巻」には法琳の『弁正論』(べんしょうろん)が長く引用されている。その引用文を第19回報告では大きく四つにわけたが、今回は前回に引き続き第三段落を見ていく。
 『弁正論』引用の読解XIV―道教経典の偽謬―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 道士による経典の水増し
 『弁正論』引用の第三段落は引用⑪と⑫である。前回見た引用⑪は、『弁正論』気為道本篇で占衡の君子が批判的に取り上げた道教経典の文章であった。そして、今回見る引用⑫は『弁正論』出道偽謬篇(しゅつどうぎびゅうへん)の文章であるが、この引用⑪と⑫の間には「乃至(ないし)」という省略を示す言葉が置かれず、一連の文章のように引かれている。これは前回指摘したように、引用⑪での道教経典の主張を⑫でもって批判する意図なのであろう。
 ただ、この引用⑫も「乃至」と記される省略が多く、「内容的にも引き方の杜撰さにも理解に苦しむものがあります」(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解くⅤ―化身土巻(後)―』237頁、明石書店、2001年)などと指摘される箇所である。そこで、原文の内容にも入りながら、親鸞の引用意図を丁寧に探っていこう。
 引用⑫は出道偽謬篇(道教の偽謬を出す篇)のなかでも「諸子為道書謬(諸子を道書と為すの謬)」という、道教に関係のない諸子を道教文献として数えて誇張していると批判する箇所である。なお、ここは甄鸞(しんらん)『笑道論』(天和5年〔570〕)の「三十六諸書為道書」(『広弘明集』抄録、『大正蔵』52-152b~c。なお「『笑道論』訳註」〔『東方学報』第60冊、1988年〕も参照)の議論をほぼそのまま踏襲している。『弁正論』原文は次の記述を議論の発端にする。

『玄都観経目』を検するに、称すらく「道家の伝記・符図・論等、総べて六千三百六十三巻有り。その二千四十巻は本あるを見る。計るに紙を須(もち)いること四万五十四張なり。その一千一百五十六巻は、これ道経の伝と及び符図にして、その八百八十四巻は、これ諸子の論等なり。その四千三百二十三巻は、道士陸修静の、宋の明帝に答えて上る所の目録を披(ひら)き検するに、その目と及び本、今並に未だ見えず。」 (『大正蔵』52-546b)

 『玄都観経目録』(天和5年〔570〕頃)とは北周の長安にあった最大の道教寺院「玄都観」の目録である。そこには次のように記されてある。道教関連典籍は6363巻があるとされるが、実際に現存するのは2040巻である。そのなかで1156巻は道経の伝記と符図であり、884巻は諸子の論である。その他の4323巻は、古い陸修静(406~477)の目録(『三洞経書目録』泰始7年〔471〕)を調べても、その題目も本も見ることはない、と。この『玄都観経目録』の記述を批判するのが、「諸子為道書謬」の一段である。ただし、親鸞はこの『玄都観経目録』の記述を引かない。
 原文は、ここからいくつかの道教関連書籍名を列挙したうえで議論を展開していく。その議論は大きく三段に分かれるが、親鸞はその三段のそれぞれから部分的に引用している。まずは、その第一段の冒頭からである。(引用文は親鸞の自筆本に従い適宜『真宗聖典』の記述を訂正した文を示す。また改行は筆者による。)

道士の上(あ)ぐる所の経の目(な)を案ずるに皆云く、宋人陸修静に依って一千二百廿八巻を列(つら)ねたり。本(もと)、雑書諸子の名なし。しかるに道士、今列ぬるに二千四十巻あり。その中に多く『漢書』芸文志の目を取りて、忘(みだり)に八百八十四巻を註して、道の経論となす。乃至 (『真宗聖典』395頁)

道士が献上した道教経典の目録を考えると、すべて陸修静の目録によって1228巻を連ねていると言っている。そして、もともとの陸修静の目録には雑書や諸子の名は入っていなかった。ところが道士が今連ねるところには2040巻あるという。そのなかの多くは『漢書』芸文志の目録から、勝手に884巻を付け加えて道教の経論としているのである。こうして、現在道士が道教典籍として掲げるものは、勝手に捏造(ねつぞう)・水増ししたものだと指摘されるのである。
 ここで親鸞の引用は途切れるが、『弁正論』原文は「かくの如きの状に拠るに、理として怪しむべきことあり」(『大正蔵』52-546c)として、具体的に道士が道教典籍とした書物、そうしなかった書物の名を挙げ、そこにどのような根拠があるのか、と疑問を呈していく。
 (ここで『笑道論』の直接引用もされる。なお武内義雄は、突然「笑道論云」と直接引用があることを不審に思い、これ以下第二段を本来は注の文章だったと推測する〔「教行信証所引弁正論に就いて」『大谷学報』第12巻第1号22頁、1931年。教研東京分室もこれに従う〕。しかし『弁正論』と『笑道論』の本文を比較すると、三段にわたってほぼ同様の記述となっており、『弁正論』の第二段をあえて注と見る必然性は筆者には見いだせない。直接引用は単に法琳による強調であろう)。

■ 道書における君臣・父子関係での悲劇
 次の第二段への展開はわかりにくいが、恐らく先段で道士が勝手に道書と位置付けた書物(『陶朱変化術経』など)を検討し、その内容の虚偽性を指摘しようとするものと考えられる。親鸞はその三分の二程度を引用している。

陶朱(とうしゅ)を案ずれば、すなわちこれ范蠡(はんれい)なり。親(まの)あたり越(えつ)の王、匂践(こうせん)に事(つか)えて、君臣ことごとく呉(ご)に囚(とら)われて、屎(ふん)を嘗(な)め尿を飲んで、またもって甚(はなは)だし。また范蠡の子は斉(せい)に戮(ころ)さらる。父すでに変化(はんか)の術あらば、何ぞもって変化してこれを免がるることあたわざらん。 (『真宗聖典』395頁)

 『陶朱変化術経』に出る陶朱という人物は、実は春秋時代の范蠡のことである。彼は越王の匂践(在位、前496~465)に仕えたが、君臣ともに呉の国に捕えられて、糞を舐め尿を飲むという苦しみを味わうことになった。また范蠡の子は斉の国で殺された。父である范蠡が変化の術をもっていたのであれば、どうしてこのような事態を免れることができなかったのか。

『造立(そうりゅう)天地の記』を案ずるに称すらく、老子、幽王(ゆうおう)の皇后の腹の中に託生(たくせい)す。すなわちこれ幽王の子なり。また、身、柱史(ちゅうし)たり。またこれ幽王の臣なり。
『化胡経(かこけい)』に言わく、老子、漢にありては東方朔(とうぼうさく)とす。 もし審(あき)らかに爾(しか)らば、知りぬ、幽王、犬戎(けんじゅ)のために殺さる。あに君父を愛して神符を与えて、君父をして死せざらしめざるべけんや。乃至 (『真宗聖典』395~396頁)
ここでは『造立天地記』から、老子が幽王(在位、前781~771)の子であり、また家臣でもあったというエピソードと、『化胡経』から、老子が漢の時代に武帝(前156~87)に仕えた東方朔(前154~92)であったというエピソードを引く。そのうえで、その幽王は異民族犬戎によって殺されたが、どうして老子は君主であり父でもある幽王を愛して神符を与えて助けなかったのかと疑問を立てる。ここで親鸞の引用は終わるが、原文では次に東方朔に関する文が続く。

また漢武は、兵を窮めて中国を疲弊せしめ、天下の戸口は、太半を減ずるに至る。老子、何ぞ忍びてその符を与えて、用いて兵を辟(さ)けしめざる。
これをもってこれを験するに、呪厭(じゅおん)の方は何ぞそれ謬(あやま)れるか、何ぞそれ謬れるか。 (『大正蔵』52-547a)
内容は、漢の武帝が兵力を使い果たし国力を落とすことになったが、どうして老子は符を与えてこれを避けなかったのか、というものである。そして、これら三つのエピソードの結びとして「呪厭の方」というものは偽謬なのだと断じる。本来の第二段の結論はここにある。
 しかし、親鸞はこの第三のエピソード、及び結びの文を引用しない。つまり親鸞の引用意図は、本来の「呪厭の方」への批判ではないのであり、これらの文は必要なかった。親鸞の引用意図を探るには、親鸞が引く第一と第二のエピソードに共通する事柄を考えねばならない。そしてそれは君臣・父子関係での悲劇である。
 この引用⑫は、引用⑪での道教経典への批判として連結していると初めに述べた。そこには「玉京に朝晏(ちょうあん)して、もって道君を楽しましむ」(『真宗聖典』395頁)といった都合の良いことが書いてあったが、異なる道書には君父に何もできずに無残な目に遭っている。そのことを示すエピソードだけを選び取り、引用していると考えられよう。
 第25回報告で見た引用⑦のように、道士は自己の立場を「老君、範と作す。ただ孝、ただ忠、世を救い人を度す、慈を極め愛を極む」(『真宗聖典』391頁)と述べ、そこから仏教を不孝の教えだと批判していた。孝は父を、忠は君を敬うものと言えようが、道士が道教の経論とした文献のなかにその孝や忠を果たしていない記述が出てくる。そのようなでたらめさは後代の道士たちが内容を確かめず、道教の経論を後から勝手に水増ししてきたことに起因する。

■ 玄都についての記録

陸修静が目録を指す。すでに正本なし。何ぞ謬りの甚だしきをや。しかるに修静、目(な)をなすこと、すでにこれ大偽なり。今、玄都録、またこれ偽中の偽なり。乃至 (『真宗聖典』396頁)
これは親鸞の引用の第三段であるが、原文と比較すると、この文は意味をなしていないことがわかる。第三段は、本来以下の通りである。

『玄都館経目録』に云う、「道経の記・符・図・論、凡そ六千三百六十三巻。二千四十巻はすでに本ありて見行す。その四千三百二十三巻は、陸修静の目録を指すにすでに正本なし」と。何ぞ謬れることの甚しきや。しかも修静の目たること、すでにこれ大偽なり。今の『玄都録』は、またこれ偽中の偽なり。
(下線部引用者『大正蔵』52-547a)
 この一段は、初めに挙げた『玄都観(館)経目録』の主張に対しての批判である。目録の内、2040巻は現存する。しかし4323巻は陸修静の目録を指示するが現存しておらず、偽りの記述である。だから最後に「玄都録」、つまり『玄都観経目録』も「またこれ偽中の偽なり」という言葉になるのである。しかし、親鸞は下線部しか引いておらず、そのため意味不明な文章になっている。また親鸞の引用では、『玄都観経目録』という書名が一度も出てこず、そのため最後の「玄都録」が何なのかもわからなくなっている。
 このような意味不明な引用は、反対に親鸞の強い意図があると見ねばならない。マイケル・コンウェイの指摘を受けたが、親鸞の引用の仕方を見ると、「玄都録」とは実は『玄都観経目録』を指していないのではないかと考えられる。先の引用⑪では「大道天尊は大玄都(中略)を治す。災、及ばざる所なり」「神明君最(しんめいくんさい)、静を守りて太玄(たいけん)の都に居り」(『真宗聖典』395頁)などとあった。このような「太玄の都」に関する記述、これを「玄都についての記録」、つまり「玄都録」と呼んでいるように見えるのである。そのように意味づけるために、『玄都観経目録』に関する箇所を引用しないという、不自然な引用にしたのではないだろうか。
 道教経典は陸修静の時点ですでに杜撰な状況にあり、そこからさらに道士たちによって水増しされて、まったくの虚偽となっている。そのような虚偽なる典籍(玄都録)を根拠として語られた思想もまた虚偽なるものとならざるを得ない。それを親鸞の時代に即せば、「洛都の儒林」(『真宗聖典』398頁)が理想として語っていることはまったくの虚偽なのだ、ということである。このような意味が「今、玄都録、またこれ偽中の偽なり」に込められているのではないだろうか。
 理想を語り、かつ仏教を批判する道士の教えとは、実は思想的根拠をもたない虚偽なのだ。そしてそれに追随する現在の京都の学者の思想もまた虚偽なるものなのだ。これが、親鸞が『弁正論』引用の第三段落で行った批判なのである。

※『弁正論』引用の全体については『現代と親鸞』第31号(2015年12月1日号)に論文として掲載しています。(出版物紹介のページから見ることができます)

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