親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。「化身土巻・末巻」に尋ねられる人間の問題「異執」は、いかにしてそこから離れることになるのか。今回は、『月蔵経』の第三文、「諸天王護持品」の引用を見ていきたい。
 愚痴無智の自覚 ―『月蔵経』「諸天王護持品」試論 ―
 親鸞仏教センター研究員 藤原 智

■ 「諸天王護持品」の展開
 「化身土巻・末巻」は『月蔵経』「諸悪鬼神得敬信品(しょあくきじんとくきょうしんぼん)」上・下に続き、「諸天王護持品(しょてんのうごじほん)」の全文が引用される。「諸悪鬼神得敬信品」では、まず「邪見」を離れるべきことが命題として掲げられつつ、それが「難を知ること」、いわば自己が自己を正当化することを認めない地平において果たされることが確かめられていた。しかし、その「決定(けつじょう)の信を作(な)せ」る者が、やがて「他の過(とが)を見る」ことにより悪道へ向かう生へと堕落することになる。それはまさに「邪見」が離れ難きがためであるのだが、しかしながら、あくまで離れるべきものとして保持し続けることは可能であるのか。それが、続く「諸天王護持品」の課題である。
 「諸天王護持品」は、その全文が引かれるという、『教行信証』のなかでも異色の引用文である。あまりに長いため、大まかな流れと注目すべきポイントのみに絞って見ていこう。
 「諸天王護持品」は釈尊と娑婆(しゃば)世界の主である大梵天王(だいぼんてんのう<梵天>)との対話に始まる。釈尊は梵天に「誰がこの四天下(してんげ)を護持しているのか」と問う(『真宗聖典』374頁)。この問いに対して、梵天は「他化(たけ)自在天をはじめとした諸天に護持させています」と答え、釈尊も「汝が所説のごとし」と一応それを承認する(『真宗聖典』376頁)。
 次に釈尊は月蔵(がつぞう)菩薩に語り始める。その内容は、鳩留孫仏(くるそんぶつ)や拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)といった過去仏が、この四天下を梵天をはじめとした諸天に護持するよう付嘱していたというものである(同377~378頁)。ここで問題となるのは、初めの釈尊と梵天との対話において、梵天が護持する責を負う者のなかから自己を除外していたということである。過去仏からこの四天下を護持するよう託されていたにもかかわらず、しかし現に仏法が尽滅していく事実を前にして、梵天はその責任逃れをしたということができるであろう。
 月蔵菩薩との対話で以上のことが明らかとなった後、改めて釈尊と梵天との対話となる。仏法を護持するよう託されていた仏弟子が、その責を放棄しさらには釈尊すらも欺(あざむ)こうとしていたことが暴露される場面である。ここに親鸞の注目があるのである。

■ 「諸天王護持品」における親鸞の読み換え

 釈尊は梵天に対して、改めて「過去の諸仏は誰に四天下を護持させたのか」と問う。その答えに親鸞の独特の読み方が示されている。まず、本来の展開を見てみよう。なお原文の読みは『国訳一切経』に依る。
 釈尊に問われた梵天は、過去の諸仏が自分と帝釈天(たいしゃくてん)に付嘱したと答え、続けて「我れ失有りて己の名、及び帝釈の名を彰(あらわ)さず」と、自分には過失があって名前を出さなかったと言う。そしてさらに「我今過を謝したてまつる。我れ小児の如く愚痴にして無智なりき。如来のみ前に於て自ら名を称せず」と述べ、愚かにも釈尊の前で自分の名を言わなかったと懺悔するのである。
 この梵天の返答を親鸞は独特の読み方をする。まず前者については、

我、失ありやいなや。己が名および帝釈の名を彰す。(『真宗聖典』379頁)

 と読んでいる。「失ありやいなや」という反語の読み方は、「私に過失がありますか?」と反対に釈尊に問い返すものである。続けて「名を彰す」と読んでいることから、ここで梵天は「自分は名前を出して、四天下を護持させている」と自覚していることになる。だからこそ釈尊に問い返すのである。親鸞は梵天を、釈尊の指摘を受けて直ちに反省するものとしてではなく、自己を正当化し釈尊に反論するような存在として描き出していると言えよう。前の「諸悪鬼神得敬信品」下での「他の過を見る」という一文を、この梵天の姿のうえに見ることができないだろうか。
 しかし、そのように釈尊に反論する言葉を吐いた梵天は、親鸞の読み方では非常に唐突になるけれども、直ちに懺悔をすることになる。その懺悔の言葉も、自分の名前を出したと自覚する梵天にとっては、原文のように「自分の名前を言わなかった」というものになるはずはない。親鸞は次の様に読むのである。

 我小児のごとくして、愚痴無智にして、如来の前(みまえ)にして、自ら称名せざらんや。
(『真宗聖典』379頁)
 ここで親鸞が「称名せざらんや」と読んでいることに注目した藤場俊基は、これを「称名念仏」を意味すると指摘した(『親鸞の教行信証を読み解くⅤ』135頁、明石書店、2001年)。梵天は釈尊に懺悔し、称名念仏しないわけにはいかないと述べる。なぜか。それは「愚痴無智」だからである。
 原文では、この「愚痴無智」とは釈尊に問われた際に自分の名前を挙げなかったことを単に意味していた。以前の自分は愚かであったが、これからはまじめに生きます、という反省だったのである。しかし、親鸞の読み方は、自分は愚痴無智の身であるから称名念仏しないわけにはいかないと、現在進行形の自覚として語られていることになる。称名念仏が、ここにおいて直ちに梵天の懺悔の表明となるのである。

■ 梵天の護持
 以上の応答の後、梵天はあらためて釈尊に仏法を護持していくことを誓っていく。その際に梵天は「悪行の衆生を遮障(しゃしょう)して、行法の衆生を護養する」(『真宗聖典』380頁)と述べる。ここで言う「行法」とは、もちろん直前に梵天が愚痴無智の自己に相応する法として確かめた「称名念仏」にほかならないであろう。梵天は「称名念仏の衆生を護り養育する」と誓うことになるのである。
 これに対して釈尊も「所有の行法、法に住し法に順じて悪を厭捨(えんしゃ)せん者は、今ことごとく汝等(なんだち)が手の中に付嘱す」(『真宗聖典』380頁)と応じる。つまり、「行法=称名念仏に順ずる者を梵天に付嘱する」と述べるのである。なお『真宗聖典』では「所有の法を行じ」となっているが、これは誤りである(『真宗聖典』1043頁、注5参照)。
 こうして親鸞は、愚痴無智の自覚と一つのものとしての称名念仏こそ、諸天が護持せんとする法であると確かめていく。「信巻」に信心の利益として「冥衆(みょうしゅう)護持」(『真宗聖典』240頁)を語るのも、ここから確かめられたことであろう。
 全文が引用され論点が見えにくい「諸天王護持品」であるが、本報告では問題点が離れ難き邪見がいかにして離れるべきものとして自覚されるのかという点にあることを確認し、その内容をたどってきた。その点からすると、親鸞はこの邪見を梵天のうえに見いだしたと言えよう。梵天は仏法を護持すると誓っていながら、その実は釈尊に反逆する者であった。しかし、その事実が暴露されたとき、梵天は「愚痴無智」の自己を自覚し、その自己に相応する法として称名念仏を語るのであった。親鸞が描き出そうとしたのは、この梵天の転回である。そしてこの転回を通して、梵天はあらためて仏法すなわち称名念仏(愚痴無智の自覚)の護持を誓うことになる。ここに親鸞が語る冥衆護持の世界が開かれてくるのであり、邪見を離れるべきことが保持されてくるのである。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第29号(2014年12月1日号)に論文として掲載しています
 (出版物紹介のページから見ることができます)。

Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会 「『教行信証』と善導」研究会
『西方指南抄』研究会親鸞仏教センター研究交流サロン インタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス