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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。これまで「化身土巻・末巻」で長く引用される『大集月蔵経』の文意について報告してきた。ただ問題となるのは、なぜ親鸞は『月蔵経』にこだわったのかということである。その親鸞の『月蔵経』引用の必然性を、これまでの報告を通して確認したい。
 『大集月蔵経』引用の主眼④ ―末法における仏法―
 親鸞仏教センター研究員 藤原 智

■ 『教行信証』の歴史的課題
 これまでの報告で確認してきたことは、親鸞は『大集月蔵経』の引用を通して、諸天に「称名念仏を護持する」と語らせているということであった。しかし、親鸞はなぜ『大集経』に注目したのか。この『大集経』引用について、すでに名畑崇『『教行信証』成立の背景』(東本願寺出版部、2011年)が、元仁元年(1224年)に比叡山が専修念仏への批判として提出した奏状(「一向専修停止事」、別名「停止一向専修記」「延暦寺大衆解」)との関係を指摘している。この奏状の論点は多岐にわたるが、『大集経』との関係に限ると第二条と第六条における次の批判が注目される。


『大集経』等の説を案ずるに、仏、一代聖教を以て、十方霊神に付属したまふ。即ち仏勅を奉り、法宝を鎮護す。是の故に若し経教を受持せば必ず衛護せむ。又誹謗を生ぜば定んで楚毒(そどく)を与へむ。(『親鸞聖人行実』96頁、東本願寺出版部)
『大集経』の説を案ずるに、仏法の精気(しょうけ)を以て、鬼神の精気を益す。鬼神に精気あれば、則ち五穀、精気多し。五穀に精気あれば、則ち人倫豊楽なり。(中略)而(しか)るに今、仏法を誹謗するの輩、諸国往々に之あり。六字の名号を除きての外、衆善勤行の人なし。国土の衰微、此れ誰が過(とが)か。(中略)源空、邪宗を建立して以来た、戒律既に隠れ、礼誼又癈る。
(中略筆者、『親鸞聖人行実』104~105頁)
 このように比叡山は『大集経』を根拠にして、仏法の興隆が鬼神を育み、結果として国土が豊かになると主張しつつ、法然の専修念仏の教えが広まったことによって仏法が誹謗され、その結果として神々が機嫌を損ね国土が衰退するのだと述べるのである。特に、そこで冥衆(みょうしゅ)と関連して語られる仏法の中心が「戒」であることは見逃してはならない。
 親鸞は「化身土巻」の途中から聖道門と浄土門を対比させつつ、「我が元仁元年」(『真宗聖典』360頁)が末法に入って683年(正確には673)が過ぎていると論じている。この年紀の記載は、この年に出された先の比叡山の奏状を意識してのことと考えられる。ただし、入末法に関する議論は機会をあらためて報告したい。ともかく、これ以降の論述は比叡山の奏状への反論という側面をもつことになるのである。
■ 『大集経』を読む視点―『末法燈明記』と『往生要集』―

 「元仁元年」をもってすでに末法とする親鸞は、その直後に『末法燈明記』を引く。そこで注目されるのが、末法における僧の在り様を語るなかで引用される『大集経』である。


「もし衆生ありて、我が法のために、剃除鬚髪(たいじょしゅほつ)し、袈裟を被服せんは、たとい戒を持(たも)たずとも、彼等はことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり」乃至  
(『真宗聖典』366頁)
戒をたもたずとも涅槃印を受けているとするこの文は、道元が言うように(『大正蔵』82-281-c)本来は出家の功徳を示す文と理解される。しかし、出家を「非僧非俗」と結びつけるなら話は別であるが、親鸞が行為としての出家に重きを置いていたとは考えにくい。では、末法において戒をたもたずとも涅槃印に印されるとはなぜなのか。これを『大集経』に即して明らかにすることが、おのずと戒を中心に『大集経』の冥衆護持を語る比叡山への反論となるのである。
 こうして『大集経』を読み説こうとする親鸞にとって、一つの指針となるものがあった。それがすでに指摘した『往生要集』である(本報告第八回参照 )。『往生要集』は「念仏一門」を明らかにするのが目的の書であるが、その念仏の利益として「冥得護持」があることを『護身呪経』(『灌頂経』)を引用して論じている(『真宗聖教全書』1-865頁)。その経文とほぼ同文が「化身土巻」で『月蔵経』のすぐ後に引用されており(『真宗聖典』386頁)、『往生要集』が念仏の利益として冥衆の護持を語ることを親鸞は強く意識していることがわかる。
 ただし、そこで語られる念仏とは何か、が問題である。『往生要集』は『浄土論』の五念門をもって念仏を組織し、「三業相応」としてこれを語った。それは菩提心をおこし、戒律をたもって行う念仏である。そして、その「三業相応の念仏」の利益として冥衆の護持を語ったのである。その際、経証として挙げられたのが『大集月蔵経』「諸魔得敬信品」であった(『真宗聖教全書』1-919頁)。しかし、『往生要集』はそこで議論を止めるのではなく、三業相応に堪えられない者の道として、「たとい戒を破すといえどもその分なきにあらず」と述べ、同じく『月蔵経』の「忍辱品」から二文引用する。その経文こそ『末法燈明記』が掲げた「たとい戒を持たずとも、彼等はことごとくすでに涅槃印のために印せらるるなり」である。そして、すでに報告したように、親鸞もこの「忍辱品」の文を引いているのである(『真宗聖典』385頁)。
 『往生要集』が「たとい戒をたもたずとも」と言うとき、それは念仏自体を捨てることは意味しない。その念仏の内容が「三業相応」から「極重悪人唯称仏(極悪の悪人は、ただ仏を称すべし)」(『真宗聖典』207頁)という称名念仏へと受け止め直されるのである。そうすると、『往生要集』は『大集経』を引用して、冥衆が称名念仏の衆生を護持するのだと示していることになる。それはさらに返って、『末法燈明記』が末法の有り様として、同じく『大集経』を引用して無戒を語るところにも称名念仏があるということになる。
 こうして親鸞は、『往生要集』を手がかりに、『大集経』が語る仏法とは戒ではなく称名念仏である、と理解することになる。そして『教行信証』において、これまで報告したように『大集月蔵経』を引用して、冥衆が称名念仏を護持するのだと『月蔵経』自体に語らせたのである。特に、前回報告したように「諸魔得敬信品」の「三業相応」という言葉を、称名念仏を語る文脈に配置したところに親鸞の苦心がある。その「諸魔得敬信品」の引用文は、『往生要集』が「三業相応の念仏」の証文として示した文と同義の文であり、親鸞は『往生要集』が語る念仏をあくまで称名念仏として読み込もうとしたのだと考えられるのである。あえて言えば、法蔵菩薩の「三業の所修」(『真宗聖典』225頁)の成就としての名号と受け止めたかもしれない。
 以上のように親鸞は、末法という時代において戒をたもたずとも称名念仏の衆生を護持することを冥衆が誓っているのだと、『往生要集』を手がかりにしながら『大集経』に語らせた。それは、専修念仏の輩は仏法を謗(そし)り神々の機嫌を損ね国土を悪くするものであると『大集経』を掲げて批判する比叡山に向けての応答であったのである。

(文責:親鸞仏教センター)

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