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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。これまでは「化身土巻・末巻」で長く引用される『大集月蔵経』について報告してきた。今回から、『大集月蔵経』以降の経典引用の展開について、考察していきたい。
 冥衆による護持の内実 ―『首楞厳経』の引用を中心に―
 親鸞仏教センター研究員 藤原 智

■ 『月蔵経』引用以降の展開について
 「化身土巻・末巻」には合計十二の経典が引用される。これまでは、そのなかで『月蔵経』の引用までを見てきた。今回からは、それ以降の展開を追っていきたい。
 そこで参考になるのが星野元豊の次の指摘である。「『月蔵(がつぞう)経』の文、『首楞厳(しゅりょうごん)経』の文、『灌頂(かんじょう)経』の文は内容的には一連のものとして続きうるものである。次の『地蔵十輪経』、『集一切福徳三昧(じゅういっさいふくとくさんまい)経』、『本願薬師経』等にいたって、吉凶を離れ、外道余天につかえるなということが説かれているのである。」(『講解教行信証 化身土巻』2105頁、法蔵館、1994年)この指摘に従い、『月蔵経』『首楞厳経』『灌頂経』と連続する三つの経典を一連の展開にあるものととらえたい。なお、『月蔵経』と『首楞厳経』との間には、後から追加されたと考えられる『華厳経』の一文がある。その意義については本報告第5回 においてすでに触れた。本来は『華厳経』がなくとも通じる文脈であるはずなので、今回は考察から除外する。
 『月蔵経』『首楞厳経』『灌頂経』という展開について、重要な指摘をしているのが、西義人「「化身土文類」末引用の諸経典に関する一考察」(『宗學院論集』第80号、浄土眞宗本願寺派宗學院、2008年)である。以下、西の指摘に従うかたちで考察を進めていく。
 西の指摘する重要な点の一つが、親鸞の『灌頂経』引用は、実は『往生要集』に従ったものだという点である。親鸞が引用する『灌頂経』(『仏説灌頂三帰五戒帯佩護身呪経第三』)の該当箇所は、『大正大蔵経』では次のようになっている。


仏語梵志。是為三十六部神王。此諸善神凡有萬億恒沙鬼神。以為眷属陰相番代。以男子女人等輩受三帰者(下線筆者、『大正蔵』21-502-b)
 親鸞の引用は次のとおりであり、『大正大蔵経』と比較すると下線部分だけを取り出していることがわかる。なお、比較のために漢文で記す。

『灌頂経』言「三十六部神王、万億恒沙鬼神為眷属、陰相番代、護受三帰者」已上  
(『真宗聖典』386頁)
このような引用はどうしてなされたのか。西は『往生要集』大文第七「念仏利益」の第二「冥得護持」の冒頭にある、次の引用の影響を指摘する。

第二冥得護持者『護身呪経』云「三十六部神王、有万億恒沙鬼神為眷属、護受三帰者」  
(『真聖全』1-865~866頁)
この『往生要集』の引用と親鸞の引用とはほぼ同じであり、親鸞の引用には『往生要集』の影響があると考えられるのである。この『往生要集』の影響は、次の法然の言葉にも見ることができる。

仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙(ごうじゃ)の鬼神を眷属として、つねにこの人をまもり給ふといへり。  (『浄土宗略抄』、『昭和新修法然上人全集』604頁)
このような浄土教での『灌頂経』理解の流れを受けて、親鸞も「三帰」もしくは「念仏の利益」としての冥衆の護持を確かめているのだと考えられよう。
 前回まで『月蔵経』七文を見てきた。そこで確認したことは、特に「諸天王護持品」から「忍辱(にんにく)品」に至るその内容について、冥衆が称名念仏一行を護持すると誓うということであった。『月蔵経』から『灌頂経』までを一連の展開と見るならば、そこにある課題は「冥衆護持」だと考えられよう。そうすると、その間に引用された『首楞厳経』も「冥衆護持」を語る文脈において理解されるべきなのである。そこで次に、『首楞厳経』が語る「冥衆護持」の内実について考察していこう。
■ 『首楞厳経』の引用に見る冥衆の護持

 まずは親鸞が引用する『首楞厳経』の文(『真宗聖典』385~386頁)は、原典にはこれそのままの文章は見当たらない。『大正大蔵経』の該当箇所(19-131~132)と比較すると、この引用文は四箇所に分かれた文章を繫(つな)ぎ合わせたものであることが知られる。それが親鸞の意図なのか、または『首楞厳経』をこのように読む伝統があったのかは不明である。
 さて、親鸞の引用文の内容に入っていこう。それは次のように読まれている。


彼等の諸魔、彼の諸鬼神、彼等の群邪、また徒衆ありて、おのおの自ら謂わん。無上道を成りて、我が滅度の後、末法の中に、此の魔民多からん、此の鬼神多からん、此の妖邪(ようじゃ)多からん。世間に熾盛(しじょう)にして、善知識と為って、もろもろの衆生をして愛見の坑(あな)に落とさしめん…  
(『真宗聖典』385~386頁)
 この文について、星野元豊は「親鸞の訓みでは意味が通らない。ここは「各自謂成無上道」で切って「我滅度後末法之中……」と訓むべきであろう」(前掲書2104頁)と指摘する。つまり、無上道を成ったと思い善知識のふりをして衆生を堕落させる諸魔がいるので、そのような諸魔を警戒せよと釈尊が語っているとするのである。しかし親鸞の訓点は、あくまで「おのおの自ら謂わん」で切って、それ以降を諸魔が話す内容としている。そうすると、諸魔が「諸魔を警戒せよ」と語ることになり、一見矛盾する。しかし、われわれがすべきは、前後の文脈から「冥衆護持」ということを念頭に、この諸魔の言葉の内実を探ることではなかろうか。
 ここに登場する魔はよく見ると、話し手は「彼」の魔であり、警戒されるのは「此」の魔であって、それは別個の存在と言える。直前の『月蔵経』「忍辱品」は、「天・龍、乃至(ないし)一切迦吒富単那(かたふたんな)」が「余の天・龍、乃至迦吒富単那」を批判するという内容であった。「現世利益和讃」を見ても、善鬼神と悪鬼神という対比があり、親鸞は魔や鬼神に二つの在り方を見ているのである。ここでの「彼の魔」と「此の魔」も同様に考えられよう。
 「彼の魔」による「此の魔」への批判の内容は、先述の通り魔が「善知識」として現れることを警戒させるものである。『愚禿鈔』で親鸞は「悪知識」を「偽善知識、邪善知識」(『真宗聖典』454頁)などと記しており、いわゆる「善知識」に対して真か偽かの眼を向けている。では、善知識として現れる魔の障碍とは、どのようなものなのか。ここで指摘したいのが、「行巻」に引用された元照『観経義疏』の「もし聖の解(さとり)を作(な)せば、みな魔障を被(かぶ)るなり」(『真宗聖典』185頁)である。自分が釈尊のように聖者になったと思えば、それは魔の障碍を被ることになるのだというこの文は、魔が善知識として現れる事態をよく示している。つまり、われわれを魔がいない境地に向かわせる教えこそ、魔の教えそのものなのだというのである。
 われわれは魔がいない境涯を望む。だから、そこに導く教えに惹(ひ)かれる。しかし、魔がいないとは、魔に対する批判の眼を失ったことに等しい。そのような魔に対する批判の眼を失わせるところに魔の障碍がある。それに対して、魔を批判的にとらえるとは、自己が常に魔に惑わされる身であると自覚するほかにはない。それは、常に魔がそこにいることを知るということである。そのように魔の存在を知ることこそ、魔の障碍を防ぐのである。諸魔が「諸魔を警戒せよ」と語るという『首楞厳経』の文は、魔がその自己存在を開示することを通して、魔への批判の眼を保持させることを意味する。
 「冥衆護持」とは、何か超越的な存在がマジカルなパワーで護るというのではない。それは、どこまでも自己が迷いの身であるという自覚を促し続けるはたらきとして理解されるべきなのである。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第29号(2014年12月1日号)に論文として掲載しています。
 (出版物紹介のページから見ることができます)

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